2013/12/31

吹田城跡

摂津太田城跡の次は、吹田城跡へ。

吹田城が史料に現れるのは南北朝時代からで、荒木村重の信長反逆時までは存在していたと思われる。
片山神社横の片山公園からアサヒビール吹田工場あたりにあったと言われているが、遺構が無いばかりか、周辺の工事時にも遺跡が発見されず、城郭に関しては不明な点が多いままである。



①片山公園
阪急・吹田駅から北東の国道沿いに進み、歩道橋から片山公園のある小山を見る。
いかにも平山城があったっぽい小山。




2013/12/28

摂津太田城跡

普門寺城跡の次は、阪急・富田駅から一駅乗って総持寺駅で降りて摂津太田城跡へ。

摂津太田城は、この地域では最も古い城で平安時代末期に太田頼基により築かれたと言われている。
戦国時代前半を最後に歴史上から名前が消えたので、その頃に廃城になったと思われる。

現在は遺構は全く無く、こっそり石碑が建っているのみ。


①石碑
阪急・総持寺駅から北へ進み、東芝工場の北側にこっそりと建っている石碑。



2013/12/25

普門寺城跡

摂津今城跡の次は、2kmほど南にある普門寺城跡へ。

普門寺城は、三好長慶により元管領・細川晴元を隠居させ幽閉するために、荒廃していた寺に築城したと言われている。(細川晴元が政争の難を免れて自ら入山という説もあるり)
その後、三好3人衆に擁された足利義栄の14代将軍の宣下式が、この城で行われた。

最盛期には、周辺の三輪神社、本照寺、高槻市立富田小学校辺りまで城郭の一部だったが、現在は境内の北側にわずかに土塁跡が残っている程度である。



①普門寺山門
阪急の富田駅から南に15分ほどの場所にある普門寺一帯に城があった。



2013/12/21

摂津今城跡

高槻市にある摂津今城跡。
織田信長が摂津侵攻時に前方後円墳(今城塚古墳)を利用して築いたと言われている。古墳では珍しく立入禁止にはなっておらず、自由に中を見学できる。古墳の周りには二重の堀があり、正に城向け。ただ、内部はあまり城跡っぽい改変はされておらず、城というより砦レベルだったかも。

JRの摂津富田駅、阪急の富田駅より北に歩いて20分ほど。



①外堀跡
駅から向かうと、西側の外堀跡に着く。水は無く、遊歩道となっている。


2013/12/14

伏見城跡

18切符での過去分が終了したので、この夏の18切符以降の城攻め分を。
まずは秀吉が隠居用に作った伏見城跡。ただし秀吉時代の城は関ヶ原の戦の前哨戦で焼失してしたため、現在の遺構は家康が改修したもの。しかしその伏見城も家光が三代将軍になってすぐに廃城となった。

後年、この地が明治天皇陵となったため、その築造のため一部改変され、さらに本丸跡・西の丸跡・三の丸跡・治部少丸跡・名古屋丸跡・松の丸跡は、現在立入禁止になっている。しかし、そのおかげで開発を免れ、一部改変された部分以外は廃城時の遺構が残っているとのこと。(立入禁止なので、見れないが)

戦後に伏見城の北西の曲輪である御花畑山荘跡に伏見桃山キャッスルランドがオープン。その象徴として模擬天守が建てられた。遊園地は閉園したが、この模擬天守がまだ残っている。



①伏見城跡遠景
近鉄の桃山南口駅から北へ向かう道中の交差点から伏見城跡を見る。



2013/12/07

赤穂城


龍野城の次は忠臣蔵で有名な赤穂城へ。

赤穂城は、戦国時代初期に岡光広が築城した加里屋城が始まり。その後、関ヶ原の功績で姫路藩主になった池田輝政の弟・長政が改修して大鷹城を築城。そして安芸広島浅野家の別家・浅野長直が5万3千石で入封後に、現在の縄張りとなる城を築いた。本丸と二の丸が輪郭式で三の丸が梯郭式の変形輪郭式の平城で、浅野氏に仕えた甲州流兵学者の近藤正純による縄張り。しかし赤穂城は5万3千石にしては分不相応な規模の城で、そのために財政難に陥った。

維新後は廃城となり、城内の建物は破却され石垣と堀のみが残る。その後、昭和中期から平成にかけて櫓・門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も二の丸庭園の再建が進められている。

※最初に訪れた時は年末年始休みで本丸内に入れなかったので、2013年に再訪。その時の写真も追加。


三之丸
まずは北側にあり、大手側となる三之丸跡から。


(1) 大手門と三之丸隅櫓(いずれも復元)
現在も播州赤穂駅から歩いて行ったときの入口となるが、当時も城下からの正面玄関となっていた。隅櫓は大手門を監視する防御の要であった。



2013/11/30

龍野古城

龍野城背後にある鶏籠山を登り、龍野古城跡へ。

龍野古城は標高211.7mの鶏籠山山頂にある山城で、戦国初期に赤松氏により築かれた。その後四代80年近く赤松氏が支配していたが、信長の中国進出に伴い秀吉が2万の軍勢を揖保川対岸まで侵攻すると、城主赤松広英は戦わずして投降。以後、秀吉の重臣が代々城主となる。
江戸時代になると山麓に城が築かれ、山頂の城は廃城となった。



①削平地
削平地には、兵営・矢倉・米蔵などが配置されていた。




2013/11/27

龍野城

2011-12冬の18切符の5つ目は、まず龍野城。

戦国時代は背後にある鶏籠山の山頂に城があったが、江戸時代になりこの地に入封していた京極氏が丸亀に移転するときに破却された。その後、この地に入封した脇坂安政は、山頂の城を破棄、山麓に居館部のみの陣屋形式の城郭を築いた。
これらの建造物は明治に入ってから全て破却されたので、当時の遺構としては石垣のみ。
現在の建造物は全て戦後に再建されたものである。



①大手埋門(櫓門)と隅櫓
龍野城の最寄り駅・本竜野駅から北西に歩くいて行くと、大手埋門に着く。
表からは埋門とは思えないぐらい立派な櫓門に見える。完全な復元ではなく一部推定らしい。



2013/11/23

福知山城

竹田城跡の後は、福知山城へ。
福知山城は、京都府福知山市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地に築かれた連郭式平山城。その地形の姿から臥龍城とも呼ばれる。

福知山地方の国人塩見氏が八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。現在のような縄張りの福知山城を築いたのは明智光秀。丹波平定後に築いて、女婿の明智秀満を城主とした。その後、関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城した有馬豊が、近世城郭として大改修を行った。
維新後は廃城令により廃城。建物は払下げとなり二の丸の台地は削り取られ、遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなりった。

現在は、福知山城公園として整備され、三重の大天守と二重の小天守が昭和61年に復元された。




①登城路
福知山城の北東側に登城路があり、そこから登城する。ただし、昔の縄張り図を見ると、この部分に通路は無さそうなので、右手の塀および石垣は模擬?



2013/11/16

竹田城跡

さらに遡って、2011-2012年冬の18切符での城攻め。
18切符を利用したのは実はこの時が初めて。その初の18切符は竹田城跡。

竹田城は、播但道および山陰道を見下ろす標高354メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれた梯郭式山城。縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城とも呼ばれる。また、しばしば円山川の川霧により霞むことから、最近は天空の城とか日本のマチュピチュとも呼ばれている。

竹田城は守護大名の山名宗全が築いた城で、太田垣氏を城主とした。やがて太田垣氏は山名氏から独立した勢力となったが、戦国時代も末期になると織田と毛利の大勢力の争いに巻き込まれ、いずれかの勢力に降伏や落城を繰り返した。本能寺の変で信長が死亡して秀吉の天下になった後は、赤松広秀を城主にして竹田城を改修。現在の石垣積みの城郭を築いた。赤松広秀は関ヶ原では西軍に属したため、戦後に切腹、竹田城は廃城となった。



①竹田駅
大阪から始発に乗っても、竹田着は9時過ぎ。雲海は早朝に発生するから間に合わないと思っていたが、この時間でもまだ雲海が残っていた。大急ぎで、竹田城のある背後の山に登る。


2013/11/09

津山城

庭瀬城跡の次は津山線で北上して津山城へ。
津山城は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山に築かれた梯郭式平山城。姫路城・松山城とともに日本三大平山城に選ばれている。

室町時代に美作国の守護大名であった山名氏が鶴山に鶴山城を築いたのが始まり。しかし応仁の乱で山名氏が衰退すると廃城となった。
江戸時代に森忠政(有名な蘭丸の弟)が18万6千石で入封すると、鶴山城跡に津山城を築城、5層の天守及び櫓や城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ大規模な近世城郭で、往時は広島城の76棟、姫路城61棟に次ぐ櫓の多さであった。
その後、森氏は断絶、広島藩浅野氏預かりになった後、親藩の 松平宣富が入封。幕末まで松平氏が城主であった(またもや外様大名が心血を注いで築いた名城を親藩・譜代が横取りするパターン)。

明治後の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみとなった。
現在は鶴山公園として整備され、また平成に入ってから備中櫓が復元された。



(1) 津山城遠景
吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線としている。



2013/11/07

庭瀬城跡

撫川城跡に行ったついでに、すぐ東側にある庭瀬城跡にも行ってきた。

庭瀬城は、関ヶ原の戦功により旧領を回復した戸川達安が撫川城の曲輪の一部を利用して築いた平城。
戸川達安は宇喜多秀家の重臣であったが、関ヶ原の戦では主家を裏切り、東軍に付いていた。戸川氏の4代目が夭折して嗣子なく断絶した後は、久世氏が入城。また戸川分家も再興して撫川城に入城していたので、わずかの距離に2人の藩主が住んでいたことになる。




①庭瀬城跡と堀
堀とか水路を除いてはほとんど城跡らしい遺構は残っていないが、その中で清山神社の北側は唯一、城跡っぽい。


2013/11/05

撫川城跡


2012年春の18切符5つ目は岡山県。まずは撫川(なつかわ)城跡。

撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な沼城で、備中国の備中松山城の城主・三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築かせた。三村氏滅亡後は毛利氏の出城となり、 秀吉の備中攻めの際には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなる。備中高松城の攻防時に秀吉軍により落城し、その後は宇喜多氏の支配下になるが、秀吉と毛利との和解後に廃城となった。
江戸時代に入り、戸川氏が撫川城の東に庭瀬城を築いたが、その戸川庭瀬藩は4代で改易。分家の戸川逵富が5000石で再興し、撫川城本丸跡に陣屋を築いた。



①本丸跡西側の石垣と堀
高さ4mの高石垣が現存している。




2013/11/03

紀伊田辺城跡

2012年春の18切符4つ目は城攻めとは関係なく白浜に行くつもりだったが、紀伊田辺駅で1時間ぐらい接続待ちが発生したので、その間に紀伊田辺城跡に行ってきた。

紀伊田辺城は会津川の東河口に築かれた平城。
関ヶ原の戦いの後、紀州に入封した浅野家の家老・浅野知近が田辺に入り、紀伊田辺城を築いた。その後、徳川頼宣が紀州藩主になると、付家老・安藤直次が田辺領主となり田辺城を改修した。

現在では田辺大橋の東側橋詰めのすぐ側にある小さな錦水公園の一角に水門跡と石垣がわずかに残っているだけである。



①水門跡
錦水公園の北端に石段があり、そこを降りた先が紀伊田辺城の水門跡。遺構はこの一角にのみ残っていた。



2013/10/30

加納城跡

岐阜城の次は、その南にある加納城跡へ。

加納城は1445年に川手城の備えのため斎藤利永によって築城されたのが始まりだが、1538年にはすでに廃城となっている。
この地に再び築城されたのは関ヶ原の戦の後。岐阜城を廃城とし、その代わりとなる加納城を築き、家康の娘婿である奥平信昌が入城した。現在の加納城跡は、このときに築かれた城跡。司馬遼太郎の「国取り物語」では、稲葉山城を築くまでの斎藤道三の居城として何度も登場していたが、道三の時代は廃城となっており、実際には道三とは無関係の城らしい。この城を築くにあたり、岐阜城の天守や櫓が移築された。
明治後の廃城令により城は廃城処分となり建物は破却、城門などは売却された。現在は本丸跡とその周辺に石垣や堀跡などが残っている。



①天守台
加納城はJR岐阜駅の南側やや東よりにあるので、駅から徒歩で行くと、本丸北西隅の天守台が見えてくる。
岐阜城の天守は天守台では無く、二の丸北東隅に移築され御三階櫓となり、天守は建てられなかった。また本丸の周りには内堀があったが、全て埋められ、現在天守台の北側は児童公園となっている。




2013/10/26

岐阜城

鵜沼城跡の次は岐阜城へ。

岐阜城は標高329mの金華山の山頂に築かれた山城。鎌倉時代に二階堂氏が稲葉山(現在の金華山)に砦を築いたのが始まりとされる。ここに本格的な城が築いたのは斎藤利政(後の斎藤道三)で、道三亡き後も、信長は稲葉山城をなかなか攻略出来なかった。ようやく稲葉山城を攻略した信長は、稲葉山城を改修して岐阜城と名付け、本拠をここに移した。
関ヶ原の戦いのときは、信長の嫡孫である織田秀信が城主であったが、家康が到着する前に東軍に攻め落とされる。その後に廃城となり、天守や櫓などは加納城に移築された。

現在は岐阜城跡として国の史跡に指定され整備されており、山頂までロープウェイがあるので、簡単に山頂まで登ることが出来る。




①長良川対岸から見た岐阜城
岐阜城のある金華山の北側には長良川が流れており、その北方向だけでなく東西も急峻で、天然の要害を形成していた。山頂には復興天守が小さく見える。


2013/10/24

鵜沼城跡

犬山城に行ったついでに、木曽川を挟んで目と鼻の先にある鵜沼城跡へ。

鵜沼城は戦国時代前の室町時代に大沢氏によって築かれた。
戦国期には鵜沼城主大沢正秀の調略を命じられた秀吉(当時は藤吉郎)が自ら人質になったという話が小説には良く出てくるが、史実かどうかは怪しい。小牧・長久手の戦いで、犬山城攻略の拠点となった後に廃城となった。

以前は城山荘という旅館があったが閉鎖。その後は山自体は各務原市の所有になる。しかし付け根部分が私有地でなので、城跡には入れなかった。



①木曽川対岸から見た鵜沼城跡
木曽川に飛び出た地形のため、三方が川に囲まれ、しかも崖となっている。



2013/10/19

犬山城

大垣城の次は犬山城へ。
現存12天守、かつ国宝4天守に数えられる平山城。

犬山城は、信長の叔父である織田信康が木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築いた砦が前身。その後、何代も城主が替わり、関ヶ原の戦の前後に城郭が整備。江戸時代に尾張藩の付家老・成瀬正成が城主になって、現在のような姿に改修された。
明治の廃城令で、櫓や城門などの天守以外の建物はほとんど取り壊された。



①木曽川沿いの丘に建つ犬山城
犬山城の北から西は、木曽川が天然の水堀となっている。


2013/10/15

大垣城

2012年春の18切符の3つ目は南美濃方面の城攻めで、まずは大垣城。

大垣城は岐阜県大垣市郭町にあった平城。関ヶ原の戦で西軍の本拠地になったことで有名だが、その割にはこじんまりした城。
土岐氏支配のころに築城されていたが、堀や土塁など総囲いが整備されたのは斎藤氏支配時の氏家直元が城主のとき。その後、織田氏・豊臣氏と支配者が替わるとともに城主も替わり城も改修された。現在の城は、関ヶ原以降の石川氏3代による改修によるもの。明治の廃城令でも天守などの一部の建物は残っていたが、空襲により焼失した。

現在は、本丸・二ノ丸址が大垣公園として整備されており、天守や櫓が外観復元された。



①東門
大垣城の惣郭には七口之門と呼ばれる門があり、そのうちの一つ南西にあった柳口門が移築されたもの。移築とは言え、唯一の現存の建物。
JR大垣駅の徒歩圏内で、駅から南に延びる美濃路から少し西に位置するので、普通に駅から城に向かうと、この東門に着く。
工事のための前に停車していた軽トラックが邪魔すぎ。



2013/10/12

八幡山城跡

水口城の後は、八幡山城跡に。

八幡山城は、標高283mの八幡山に築城された急峻な山城。本能寺の変で灰燼に帰した安土城に替わる近江国の国城として秀吉が築いて、甥の豊臣秀次が入城した。秀次事件で秀次が切腹すると八幡山城も廃城。築城からわずか10年での廃城だった。

城跡は近江八幡駅から少し離れていてバスがでているのだが、バス待ちの間に歩いていたら、目的地に着いてしまった。また二之丸のすぐ近くまでロープウェイがあるので、ロープウェイを使用して八幡山城跡まで行ってきた。この手の山城は実際の攻略しづらさを実感するために自分の足で登りたいところだが、この日4つ目の城でバテてきていた&小雨が降っていて足元がぬかるんでいたということで足で登るのはあきらめた。



①八幡山全景と八幡堀
八幡山の麓には琵琶湖から水を引いた堀があり、防御だけでなく運河として利用していた。


2013/10/10

水口城

大津城跡の次は水口城へ。

水口城は家光が上洛の際の宿館として道中の水口に築かせた城。本丸に二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれたが、使用されたのは家光上洛の1回限りだった。
明治維新後に廃城となり、出丸と乾櫓の石垣を除いて大半が撤去された。



①模擬隅櫓
当時、出丸には平屋の建物しかなく、この櫓は模擬櫓。中は資料館となっている。



2013/10/08

大津城跡

大溝城跡の次は大津城跡。

大津城は、坂本城を廃城して秀吉が浅野長政に命じて築城させた城。しかし関ヶ原の戦で近くの長等山から大砲で砲撃を受けるなど攻防戦に不向きな城であることが露呈し、戦後は廃城となった。大津城の建築物の一部は彦根城や膳所城に転用、移築された。
遺構は残っておらず浜大津駅近くに石碑があるのみであるが、大津祭曳山展示館裏側にある石垣は大津城の石垣との噂もあるらしい。




①石碑
大津城の遺構は残っておらず、浜大津駅の北側の歩道橋を渡った先に石碑があるのみ


2013/10/05

大溝城跡

2012年春の18切符2つ目は南近江に行き、まずは大溝城跡。

大溝城は信長の甥・津田信澄が築城した。琵琶湖とその内湖を取り込んで築いた水城で、縄張りは舅である明智光秀と言われている。信澄は、本能寺の変で光秀への内通を疑われ信孝に殺害され、その後は色々と城主が入れ替わった。そのうちの一人が京極氏で、数年前の大河ドラマのせいか、地元は京極氏押しだった。(写真に見えるのぼりは京極氏)
江戸時代の一国一城令により廃城。現在は天守台に遺構が残っているのみである。



①天守台石垣南西面
天守台西側に天守台へ登る石段がある。




2013/09/28

丸亀城

高松城の次は、同じ讃岐の丸亀城へ。
丸亀城は標高66mの亀山に築かれた輪郭式平山城。山麓から山頂まで4重に重ねられた石垣は、総高60mで日本一高い。現存12天守の一つだが、天守の大きさはその中で一番小さい。

丸亀城は高松藩主生駒氏が高松城の出城として築城。江戸時代になり一国一城令のため一旦廃城となるが、讃岐藩が東西に別れて西讃岐藩が成立したため、復活。その西讃岐藩は瀬戸内海を睨む要所となるため、築城の名手と言われた山崎家治が移封された。家治は全山を三段による石垣で囲い込む城に改修するが、家治の代では完成せず、その子・孫も夭折したため山崎氏は断絶。その後に城主となった京極氏の時代になってようやく完成、実に32年もの歳月がかかった。

現在は城跡の全域が国の史跡に指定されており亀山公園となっている。



(1) 丸亀城 遠景
JR丸亀駅が城の北側にあり、そこから歩いていくと、正に石垣と城というべき威容が目前に広がる。



2013/09/23

高松城

今年の夏の城攻め分が終了したので、また過去の城攻め分に戻り、2012年春の18切符を利用した城攻めで高松城。高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来して玉藻城とも呼ばれる。今治城、中津城とともに日本三大水城の一つに数えられている。

高松城は秀吉の重臣、生駒親正によって築かれた輪郭式平城。
豊臣秀吉の四国制圧の後、讃岐国の大名に封ぜられた生駒親正は始めは引田城に入城。しかし手狭なので、聖通寺城に移り、その後、高松城を築いた。関ヶ原の戦では真田親子と同様、親子で西軍と東軍に別れて戦い、東軍についた一正が高松城の城主となる。その後、親藩の松平頼重が移封してきて城主となり、城を改修した。現在見られる遺構は、この松平頼重によって改修されたものである。

維新後の廃城令によりほとんどの建物が取り壊され、また明治以降の都市化の波に呑まれて内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられ、城の総面積も、最盛期の約1/8まで減少している。しかし現在でも外堀と内堀には海水が引き込まれており、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。
また近年、天守の復元への動きがあるが、昔とは違ってかなり忠実な形でしか復元を認められなくなったため、天守の写真が一枚しかない高松城はなかなか難しそうである。


①弼櫓跡と西入口
高松城の北西側に櫓跡があり、その左側に西入口がある。
高松城の西側にJR高松駅があるので、普通の観光客はこの西入口から高松城へ入り、二の丸跡へ行く。



2013/09/21

丹波八幡山城跡

柏原陣屋跡の次は、すぐ近くにある丹波八幡山城跡へ。

丹波八幡山城は標高542mの清水山の南側の尾根線の先端に築かれた平山城で、丹波平定中の明智光秀が黒井城に対する付城として築いた。三方が急峻な崖となっており、残る尾根線上となる北側を大堀切とし、四方を急峻な崖とした付城とは思えない守りの固い城となった。

ここは元々八幡神社があったところだが、光秀の丹波攻めで戦火にあい、その跡地に城を築いた。黒井城落城後はその意義が無くなり廃城。山崎の合戦で明智氏滅亡後には、秀吉により八幡神社が再建された。

ただ、この八幡神社があるところは丹波八幡山城の南端の出丸にあたるらしい。城は南北に細長い縄張りで、北側に主郭があるが、藪が深い&遺構がほとんど残っていないらしいということで、パスした。


①八幡神社入り口
背後に見える小山が丹波八幡山城跡で、ここから城跡へ行く。




2013/09/17

柏原陣屋跡

加古川城跡の次は、加古川線に乗って丹波まで行き柏原陣屋跡へ。

柏原陣屋は織田信雄の孫・信休が中国山地の東端の中山間地域に築いた。
柏原藩は最初、信長の弟・信包が3万6千石で入り3代続くが嗣子なく断絶。その後は天領となるが、1695年に信雄の孫・信休が宇陀松山藩から移封、このときに柏原陣屋を築いた。以後、明治維新まで、10代にわたり織田氏が治めた。



①長屋門
長屋門は柏原陣屋の表門にあたり、創建時から残る唯一のものである。



2013/09/14

加古川城跡

今年の夏はお盆以降は天気の悪い日が多く、特に週末になれば必ずと言っていいほど天気が崩れたので、18切符をなかなか利用できない。最後の週末もやっぱり天気が不安定だったが、勿体無いので近場に行ってきた。

まずは加古川城跡。加古川城は、平氏追討の戦功により源頼朝よりこの地を与えられた糟屋有数が築城した平城。
戦国時代に播磨入りした秀吉が、ここで毛利討伐の軍議を開いたことで有名。この時、その軍議に出席した別所賀相が恥をかかされたことが、後の別所氏謀反の一因となった。また、この時の城主・糟屋武則は後に賤ヶ岳の戦いで武功をあげ七本槍のひとりに数えられるなどの活躍で、最終的には一万二千石の大名に出世した。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に付いたため、領土没収。加古川城は廃城になった。



①加古川城跡
現在の称名寺のある辺り一帯が加古川城の城跡であるが、遺構が全くと言っていいほど残っていない。



2013/09/08

田丸城跡

鳥羽城跡の次は田丸城跡に行ってきた。

田丸城は伊勢平野の最南端に位置する標高51.4mの丘陵に築かれた平山城。
南北朝時代に南朝方の北畠親房によって築かれた。戦国時代に入り織田軍の伊勢侵攻の結果、信長の馬鹿息子として有名な信雄の居城となり、三層の天守を備えた近世城郭へと改修される。しかし現在残っている田丸城はその信雄時代のものでは無い。信雄は天守が焼失すると松ヶ島城を築いてそこへ移り、蒲生氏郷、稲葉重通と城主が替わる。重通は関ヶ原の後に加増を受け田丸城の大改修を行い、現在の姿となった。その後は紀州藩の付家老・久野氏の居城となり幕末まで続いた。

田丸城跡はJR参宮線田丸駅の西側数百mとすぐ近くの距離にある。それにも関わらず、外堀の一部が埋められたのと三の丸跡に中学校が建っているのを除けば、当時の縄張りがほとんど残っており、かなり見応えがあった。





(1) 外堀
田丸駅から案内に従って西に進むと、田丸城跡の東南部の外堀に出る。写真のように結構な幅のある外堀がそのまま残っている。


2013/09/05

鳥羽城跡

今年の夏の18切符、3つ目は南伊勢から志摩方面の城攻めに行ってきた。
大阪からこの方面へは普通は近鉄で行くのだが、今回は18切符利用のためJRで行った。近鉄だと特急を利用しなくても鳥羽まで3時間ぐらいで行けるが、JRだと5時間近くかかった。やはりこの方面へは近鉄だな。

鳥羽城は九鬼嘉隆が三方を海に囲まれた要害の地に1594年に築かれた平山城。九鬼水軍の城らしく、大手門が海側に設けられていた。城の陸側は白壁、海側が黒壁になっており、その二色が錦になって、錦城とも呼ばれる。
関ヶ原の合戦で親子が分かれて戦うというと真田氏が有名だが、この九鬼氏も嘉隆・守隆の親子で東西に分かれて戦った。東軍についた守隆は鳥羽城を安堵されるが、守隆の死後は九鬼氏は内陸の摂津三田に転封され、その後は次々と城主が入れ替わった。九鬼氏の次に城主となった内藤忠重により、二の丸や三の丸が増設され、近世城郭としての体勢が整った。
明治に廃城となり、建造物が撤去されたと言うだけでなく、海側の斜面は道路や鉄道のために削平された。



①相橋と相橋門跡
鳥羽城の北側にある妙慶川は伊勢・志摩両国の境となった川で、鳥羽城の堀としても機能していた。江戸時代はこの北側に武家屋敷があったため、相橋を通って城に上がり、対岸には相橋門と呼ばれる城門があった。




2013/08/31

苗木城跡

今年の夏はあまりに暑かったので、7月の桶狭間関連の城跡以降なかなか城攻めに行けなかった。
暑さも少しマシになった8月下旬になって、ようやく18切符の2つ目を使用し、苗木城跡へ行ってきた。

苗木城は、木曽川の畔・標高432mの高森山に築かれた山城。別名、霞ヶ城や赤壁城とも呼ばれる。
鎌倉末期に遠山景長が高森山に砦を築いたのが始まり。戦国時代に入り、遠山直廉が苗木城を築いた。織田・武田の巨大勢力に挟まれるが、両者と縁戚関係を結び生き延びる。しかし本能寺の変後は豊臣方の森長可に城を落とされ、河尻秀長か城主となる。逆に関ヶ原の戦では、徳川方についた遠山友政が苗木城を奪い返し、この功により、遠山氏は再び苗木城主として返り咲いた。遠山氏による苗木藩はわずか1万石の小藩だが、それにしては立派すぎる城である。

最寄り駅はJR中津川駅だが、そこからバスで移動。北恵那バスの「加子母・付知・福岡」方面「付知峡倉屋温泉」行きの「苗木」停留所で下車。停留所からも少し離れているが、写真で見る急峻な山城をイメージしていると拍子抜けするほど、あっさり城跡まで行ける。
ただしバス停近くには苗木城跡への案内は全く無いので、苗木城までのコースは事前に調べておく必要あり。



1. 大手口
苗木停留所は城跡の北側にあり、そこから南に歩いて行くと、城跡北西の大手口に着く。
何となく後世の石垣っぽかったのだが、ここが大手道ならこの石垣も当時の遺構なのかな。


2013/08/24

鳴海城跡

桶狭間関連の城・砦跡、最後は鳴海城跡。
今川義元が討たれた後、総崩れになる今川軍のなかで、岡部元信が守る鳴海城は頑強に抵抗する。織田軍が攻めるも鳴海城を落とすことが出来ず、今川義元の首と引き換えにようやく開城する。

鳴海城は室町時代の前期、足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。戦国時代は山口教継が城主で、織田信秀に従っていたが、信秀の死後は今川義元に寝返り。力攻めでは落とせなかった信長は謀略により山口教継を排除(今川義元により切腹を申し付けられる)するが、その後釜にはもっと手強い岡部元信が城主となった。
桶狭間後は佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。

現在はただの児童公園となっており、遺構らしい遺構は残っていなかった。Wikipediaには「公園の近辺には空堀や土塁状の地形が存在する」とあるが、それらしいものは見当たらなかった。


①主郭跡
ただの児童公園。城跡らしいところと言えば、周囲より高い高台にあるところぐらい。



2013/08/17

中嶋砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、7つ目は中嶋砦跡。
善照寺砦を出た信長軍はそこから南進、中嶋砦に入った。ここで今川義元が田楽狭間で休息中との情報を入手。兵の半数を陥落した丸根砦・鷲津砦へ向けて彼らを囮とし、残りは田楽狭間へ向かう。そしてそこで今川義元の首を取った。

中嶋砦は、信長が鳴海城を囲むように築いた三砦の一つ(残る2つは丹下砦と善照寺砦)。桶狭間の戦いで今川義元の首が取られると今川軍は撤退。それとともに、中嶋砦の役割も終わった。



①中嶋砦跡
中嶋砦は扇川と手越川の合流地点に位置していた平城。遺構は何も残っておらず、川もコンクリートで固められているが、その川に挟まれた三角地帯に砦跡の面影を見ることが出来る。


2013/08/10

善照寺砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、6つ目は善照寺砦跡。
丹下砦を出た信長は、10時頃に善照寺砦に入る。ここでまた軍勢を整える。

善照寺砦には鳴海城の東に伸びた丘陵の東端にある平山城。今川方となった鳴海城に対する牽制のために、丹下砦・中島砦とともに築かれた。

現在の城跡は砦公園として整備されているが、あまり遺構は残っていない。



①砦跡南東側
この方向から見ると、善照寺砦は結構な高さがあったことが分かる。



2013/08/04

沓掛城跡

桶狭間関連の城・砦跡、5つ目は沓掛城跡。
5/19朝、今川義元が沓掛城から出発する。17日にこの城に入城し、ここから大高城への兵糧入れや鷲津砦丸根砦への攻撃命令を出していた。

沓掛城は、北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差する交通の要衝に建てられた平城。応永年間(1394-1428)に城が築かれ、以後、近藤氏が沓掛城主となっていた。戦国時代に入り、城主・近藤景春は織田信秀の勢いが強いときは信秀に従い、信秀の死後は今川義元の傘下に入った。
桶狭間で義元が討たれた後は、織田軍により沓掛城は落城。城主の近藤景春は討ち死にし、桶狭間の戦いで勲功一番とされた簗田政綱が沓掛城の城主となった。
関ヶ原の戦いでは、そのときの城主・川口久助は西軍に参陣。敗戦後に廃城となった。

現在、城跡は「沓掛城址公園」として整備されており、本丸、空堀、諏訪曲輪などの遺構が良好な状態で保存されている。
最寄り駅は前後駅だが、駅からは離れているのでバスで移動。バス停も少し遠いので、それなりに歩く必要あり。



①空堀
バス停は南側にあるので、そこから歩いて行くと、大手門跡から城跡に入る。
その大手門跡の左(西)側には空堀が良好な状態で残っている。



2013/07/31

丹下砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、4つ目は丹下砦跡。
5/19未明に清州城を飛び出した信長は熱田神社で軍勢を整え、その後に鳴海城の北にある丹下砦に入る。熱田神社で軍勢を整えていたとき、鷲津丸根砦方面から煙があがっているのが見えて、その時点で両砦が陥落したことが分かったと言う。

丹下砦は、鳴海城が大高城とともに今川義元の支配下となった時に、その鳴海城に対抗するため善照寺砦中嶋砦とともに築かれた砦である。

現在、丹下砦は跡形も無くなっており、さらに案内板等も一切無かった。



①光明寺
鳴海城跡の北にある光明寺の裏手が城跡に当たるが、大部分が墓と住宅になっており、遺構は何も残っていない。



2013/07/27

鷲津砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、3つ目は鷲津砦跡。
丸根砦とともに大高城を包囲している砦の一つだが、丸根砦とほぼ同時に攻撃を受け5/19早朝、朝比奈泰朝に攻め落とされる。

鷲津砦は比高差20~30mの丘陵地・大高緑地の北西端に位置し、大高城から北東に500mほどの地点に築かれた平山城。鳴海城と大高城との間の連絡を断ち、大高城包囲網の一環をなす砦であった。
桶狭間で今川義元が討たれた後は、織田と徳川間で同盟が結ばれ存在価値が無くなったために丸根砦同様廃城となった。

現在は国の史跡に指定され、丸根砦跡より規模は大きいものの、遺構はあまり明確では無い。



①遠景
鷲津砦跡はJR大高駅の東側すぐのところにあり、大高駅ホームからよく見える。思っていたより大きい丘陵地に築かれていた。



2013/07/25

丸根砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、2つ目は丸根砦跡。
大高城への兵糧入れに成功した松平元康は、その直後に丸根砦を猛攻撃。5/19早朝に丸根砦を攻め落とし、織田方の守将であった佐久間盛重は討ち死。丸根砦を守っていた織田兵も全滅した。

丸根砦は大高城の東側800m、鳴海から延びる丘陵の先端に築かれた平山城。織田方の鳴海城・大高城が今川方に調略された後、両城間の連絡を断つと共に、大高城を包囲する役割を担っていた。
桶狭間で今川義元が討たれた後は、織田と徳川間で同盟が結ばれ存在価値が無くなったために廃城となった。

現在は国の史跡に指定され、規模は小さいものの遺構が残っている。



①遠景
南側から見た丸根砦。この坂を登って行くと丸根砦跡へ行ける。


2013/07/22

大高城跡

過去の未アップがまだまだ残っているが、また夏の18切符の季節が来て早速行ってきたので、そちらを先に。
13年夏の18切符1つ目は桶狭間の戦い関連の城跡・砦跡。その桶狭間のイベント順に、まずは大高城跡。
1560年5月18日夜、今川方の松平元康が大高城への兵糧入れに成功。大高城は織田方の砦に包囲され、兵糧攻めに合っていた。

大高城は比高20mほどの台地に築かれた平山城。築城年代ははっきりしないが、南北朝時代には城があったらしい。織田信秀の頃は織田方であったが、信秀の死後は今川方に。朝比奈氏や鵜殿氏といった今川の家臣が城を守っていて、桶狭間で今川義元が討たれたときは、兵糧入れに成功した松平元康が大高城を守っていた。元康はそのまま岡崎城へ帰り、大高城は廃城となった。

JR大高駅の南側にあり、普通に歩いて行ける距離にはあるが、案内が少なく城跡への道が分かりにくい。また市街地のど真ん中にある割には、遺構はかなり良好に残っていた。


①石碑
北側に登城路があり、その道を少し上がったところに石碑がある。この道をさらに上がると2郭跡に行く。



2013/07/18

月山富田城跡

18切符での山陰城攻め旅行、2日目。松江城で折り返しての月山富田城。

月山富田城は、標高197mの月山山上に本丸をおく複郭式山城。日本五大山城および日本五大山岳城に選ばれている。
月山富田城の歴史はかなり古く、平安時代の保元・平治の頃に平氏の武将が築城したとの伝承がある。
戦国時代には尼子経久がここを本拠にして中国地方最大11カ国まで勢力を拡大し、それとともに城も拡張、難攻不落の城を築いた。しかし毛利元就の台頭と共に衰え、経久の曾孫・義久のときに毛利軍に包囲され降伏・開城する。
江戸時代に入り、この地に入封した堀尾忠氏は松江城を築城して、月山富田城は廃城となった。

JRの最寄り駅は安来駅。駅から離れているので、そこから安木市イエローバス・広瀬バスターミナル行きに乗って、「市立病院前」で下車。



①月山富田城跡遠景
周囲を断崖絶壁で囲まれた難攻不落の城で毛利軍が大群で包囲しても力攻めでは落城せず、兵糧攻めにより降伏した。



2013/07/16

松江城

18切符を使った山陰城攻め旅行の初日、米子城跡の次は現存12天守の一つ・松江城へ。

松江城は亀田山に築城した輪郭連郭複合式平山城。城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており、膳所城・高島城とならんで日本三大湖城となっている。
関ヶ原の戦功により出雲に入封した堀尾忠氏だが、山城の月山富田城では不便ということで平野部に新たに城を築城。しかし忠氏は急死しため、実際には忠氏の実父で隠居していた吉晴が築城した。その吉晴も完成直前に死去、松江城主となった孫の忠晴も嗣子なく没し、堀尾氏は3代で改易となった。その後、若狭国小浜藩から入封した京極忠高が三の丸を造営した。その京極氏も忠高が嗣子なく没し廃絶、その後は信濃国松本藩より入封した松平氏が維新まで続いた。
それにしても外様大名が心血を注いで築いても、最後は親藩や譜代の城となっているパターンが多いような気がする。現存天守のある城ではこの松江城以外でも、加藤嘉明が築いた松山城(最後は松平氏)とか、池田輝政が築いた姫路城(最後は酒井氏)とか。

維新後の廃城令で、天守を除く建造物は全て撤去された。天守も売却されることとなったが、地元の有志が買戻して取り壊しは中止、保存されることとなった。
現在は松江城山公園として整備され、昭和に本丸一ノ門と南多聞の一部が復元。平成になってから、千鳥橋・北惣門橋・二の丸南櫓・中櫓・太鼓櫓等が復元した。



(1)二之丸石垣と内堀
二の丸の南側にある三の丸跡から見た二の丸石垣と内壕。
2つの櫓は、復元された南櫓と中櫓。



2013/07/14

米子城跡

18切符での城攻めは日帰りが基本なのだが、昨夏は四国だけでなく、山陰へも泊まりがけで出かけた。まずは天守が2つあった米子城跡。

米子城は、吉川広家が標高90mの湊山に築いた梯郭式平山城。月山富田城を居城にしていた広家は湊山に新城を築いたが、その途上、関ヶ原の戦いで敗退して岩国へ転封される。替わって伯耆に入封した中村一忠が米子城築城を継続し、米子城を完成させた。このとき、吉川広家の作った天守の隣に新しい天守を作った。
維新後は民間に売却されたが維持できず、大小天守とも解体され風呂屋の薪となったとのこと。風呂屋の薪って、何ちゅう勿体無いことを…

朝一の列車に乗って、一つ目の城が午後になったのは初めて。本当に大阪からは遠かった。
これだけ遺構が立派に残っていても、ここは日本100名城には指定されていない。湯築城跡を選ぶぐらいなら、こっちだと思うけどなー。



(1)米子城跡遠景
城跡は米子駅に近くて普通に歩いて行ける距離。駅から城跡に向かって歩いていると、進行方向の先に米子城跡が見えてくる。



2013/07/11

田辺城

宮津城跡の次は、田辺城へ。

田辺城も細川藤孝が築いた城で、始めは宮津城を本城としていたが、後にこちらを丹後経営の中心とした。関が原の戦いのときには、西軍の1万5千人もの大軍で包囲されるが、50日間守った城として有名。このとき、忠興が大多数の兵を率いて関ヶ原に行っていたので、守兵はわずか500人程度であった。
京極高知が入封すると本拠を宮津城に移して田辺城は一旦廃城となるが、高知死去後は三人の子供に分割相続されたため、田辺城は再興された。

現在、田辺城跡は舞鶴公園になっており、二層櫓と大手門が再建されている。





①大手門(再建)
本来の内堀だった場所に再建された。同じ再建するなら、本来の場所に再建すればいいのに。
櫓門の2階部分は資料館となっている。



2013/07/10

宮津城跡

昨夏の18切符の7つ目は京都北部に行って、宮津城跡。

宮津城は、信長により丹後国を与えられた細川藤孝が築いた城。関ヶ原の戦いでは西軍の攻勢を防ぐために田辺城に篭城し、その時自らの手で宮津城は焼き払われた。後に細川家が豊前国に転封すると、京極高知が入封して宮津城は大規模に改修された。
維新で廃城になった後は、城地の市街化が進み、現在は遺構と呼べるものがほとんど残っていない。



①鉄門の袖石垣
本丸入り口鉄門の袖石垣の一つ。宮津城の数少ない遺構。




2013/07/09

鳥取城跡

昨夏の18切符は丸岡城が5つ目で、お盆前に終了してしまった。まだ夏の18切符の期間が結構残っているし、さらにお盆休みも残っている。ということで18切符を追加購入し、6つ目は鳥取城跡へ。

鳥取城は、標高263m(比高259m)の久松山頂の山城部(山上の丸)と、山麓の平山城部(山下の丸)からなる梯郭式の城郭。
戦国時代中期に因幡山名氏・山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したのが始まり(但馬山名氏・山名祐豊の付城として築城したという説もある)。その後、山中幸盛や毛利元春、羽柴秀吉等に攻め落とされ、何度も城主が交代する。その秀吉による「鳥取の飢え殺し」は有名で、兵糧を高値で買い占められた後に秀吉軍に包囲され、開城した。
鳥取城はその後に城主になった秀吉配下の宮部継潤により大改修。山上や山麓に石垣・櫓を配し、近世城郭の基礎を築いた。しかし関ヶ原で西軍についたため改易。関ヶ原の戦いの功で入封した池田長吉、その後の池田光政により山麓部分を大改修して拡張。現在の城跡の多くは江戸期の遺構となる。
ややこしいが、長吉と光政、そしてその後に入城した光仲は別系統の池田家(いずれも池田恒興を祖とするが)。長吉系は因幡鳥取の後は備中松山へ、光政系は播磨姫路から因幡鳥取に来てそして備前岡山へ、光仲系は入れ替わりに備前岡山から因幡鳥取へ。このように池田家は外様でありながら、三家が大名として存続していた。

維新後は全ての建造物は払い下げられ、残された石垣も1943年の鳥取大地震で多くが崩された。しかし国の史跡に指定されたのを機に修復が行わた。さらに2006年から30年かけて幕末期の姿へ復元する計画があり、訪れた時は中之御門大手門登城ルートが工事中であった。

最寄り駅は鳥取駅。18切符で移動したのだが、途中の智頭急行は私鉄なので別料金発生。津山経由だとJRのみで行けるが、遠回りの上、本数が少ないので智頭急行を利用した。



(1)鳥取城跡遠景
鳥取市街地から見た鳥取城跡のある久松山。鳥取駅から城跡の近くまでバスがあるが、バスを待っている間に着くような距離なので歩いて行った。




2013/07/08

小丸城跡

府中三人衆の最後は佐々成政の小丸城跡。

小丸城は、越前国で起こった一向一揆を織田信長が収めた後、府中三人衆の佐々成政が築城した。しかし佐々成政は6年後に越中に転封、そのまま廃城となったため、未完であった可能性も高い。

府中三人衆の他の二人の城・越前府中城跡龍門寺城跡は武生駅の近くで歩いていける距離だったが、この小丸城跡は武生駅から東にかなり離れた場所なので、レンタサイクルを利用した。レンタサイクルは福井鉄道の越前武生駅でやっていたので、それを利用した。



①石碑
小丸城の本丸跡の部分は盛り土になっており、その手前の南側には石碑がある。


2013/07/07

龍門寺城跡

府中三人衆の城跡2つ目は、不破光治の龍門寺城跡。

龍門寺城は、富田長重が龍門寺を拡張した城で、織田軍の朝倉攻めの本陣となった。一向一揆により織田家の手から離れた越前を再び平定した後は、府中三人衆の一人・不破光治が入城した。この城は不破光治の城というより、賎ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家を前田利家が迎えたことで有名。



①石碑
龍門寺山門の脇に、「龍門寺城址」の石碑がある。



2013/07/06

越前府中城跡

丸岡城の後は、府中三人衆の城跡に。まずは前田利家の越前府中城跡。

越前府中城の築城年代は定かではないが、朝倉氏の府中奉行所があったのが始まりとされる。織田信長が越前を平定した後に柴田勝家の与力として越前府中に配された府中三人衆の一人・前田利家によって改修された。江戸時代には越前松平家の付家老の本多家が入城し維新まで続いたが、明治以降は市街地に没して遺構は残っていない。武生市役所からJR武生駅前一帯が城だった。



①石碑
越前市役所玄関脇にある「越府城趾」の石碑。




2013/07/05

丸岡城

夏の18切符5つ目は、また福井。別の日の平日(節電休暇という名の全社員強制有給取得)に行ってきた。まずは現存12天守の丸岡城。

丸岡城は連郭式の平山城で、勝家の甥の柴田勝豊により築城された。その後、越前の支配者が次々と替わっていくものの丸岡城は生き延びて、維新の廃城令・空襲でも天守のみ残った。ただし、残ったのは本当にその天守と周辺の石垣のみで、堀も全て埋め立てられ、小高い丘に天守だけがポツリと立っている。
その天守も1948年の福井大地震で倒壊。倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。
え、倒壊したのに現存天守?と思ったけど、よく考えたら修復工事も一度分解して再度組み立てているから、それと同じか。
ちなみに、映画「戦国自衛隊」では丸岡城が春日山城として用いられた。

丸岡城へは福井駅と丸岡駅からバスが出ているが、福井駅から本丸岡行きのバスに乗り、丸岡城停留所で降りてすぐ。ただし、そのバスの終点の本丸岡停留所に着いても降りずに、折り返した後の停留所になる。
帰りは本丸岡停留所から丸岡駅行きに乗ったが、客は自分1人。この路線は本数が少ないので、いつ廃線になってもおかしくない。


①丸岡城遠景
西三の丸跡(現在は普通の市街地)から見た丸岡城本丸。平山城と言っても、かなり低い丘陵地であることがわかる。





2013/07/04

越前大野城

福井城跡の次は、九頭竜線に乗って越前大野城に。

越前大野城は標高249mの亀山に築城された梯郭式平山城。越前一向一揆を平定した恩賞として信長から越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が築城。その後、金森長近は飛騨高山に転封し、越前大野城の城主はたびたび替わった。江戸時代には越前松平氏を経て土井氏が城主となり、そのまま維新を迎えた。維新後は建造物は全て取り壊され、石垣のみが残された。

とにかく九頭竜線が不便すぎる。18切符での移動で特急を使わなければ、大阪から始発に乗っても福井着は9:51になる。で、九頭竜線への乗り継ぎはというと、何と12:49発まで列車が無い! その前の列車が9:08発で、どう頑張ったところでその列車には乗れない。3時間半も列車が無いのなら、もう少し乗り継ぎの利便性を図ったダイヤにしてくれてもいいのに。
(逆にわざと不便にすることで、サンダーバードに乗せようという魂胆なのかも知れないが)



①藩主隠居所(移築)
越前大野駅から西に向かうと、まず幕末の藩主・利忠の隠居所がある。