岐阜城は標高329mの金華山の山頂に築かれた山城。鎌倉時代に二階堂氏が稲葉山(現在の金華山)に砦を築いたのが始まりとされる。ここに本格的な城が築いたのは斎藤利政(後の斎藤道三)で、道三亡き後も、信長は稲葉山城をなかなか攻略出来なかった。ようやく稲葉山城を攻略した信長は、稲葉山城を改修して岐阜城と名付け、本拠をここに移した。
関ヶ原の戦いのときは、信長の嫡孫である織田秀信が城主であったが、家康が到着する前に東軍に攻め落とされる。その後に廃城となり、天守や櫓などは加納城に移築された。
現在は岐阜城跡として国の史跡に指定され整備されており、山頂までロープウェイがあるので、簡単に山頂まで登ることが出来る。
①長良川対岸から見た岐阜城
岐阜城のある金華山の北側には長良川が流れており、その北方向だけでなく東西も急峻で、天然の要害を形成していた。山頂には復興天守が小さく見える。
②岐阜公園入り口
岐阜城の西側麓は岐阜公園となっており、その入口には織田信長の銅像もある。
③天下第一の門
山頂まではロープウェイがあり、その山頂駅を降りて右側の道のすぐ先に冠木門がある。
④七軒曲輪跡と二の丸跡との間の土塀(復元)
山頂駅を降りて左側の道が尾根道で、そちらの先には七軒曲輪跡がある。その七軒曲輪跡と二の丸跡との間には土塀が一部復元されている。
現在、七軒曲輪跡には展望台レストラン等があり、曲輪跡が分からなくなっている。
⑤金華山の岩石
金華山は、かつて「一石岩」と呼ばれたように全山が一つの岩塊で成り立っている。至る所で岩壁がむき出しになっており、遠景で見る以上に絶壁が多く、本当に天然の要害だったことが分かる。
⑥二の丸門
天守台の南西一段下に二の丸があり、その一段下に二の丸門があった。周囲を石垣で高く積み上げ、守りを固めている。
⑦二の丸跡から見た天守
二の丸跡にある土塀の瓦には織田家の家紋である織田瓜。この土塀はもちろん再建されたもの。
⑧本丸井戸近くの岩石と石垣
二の丸の東一段下には本丸井戸と呼ばれる井戸があり、そこから尾根道を見ると岩石と石垣で覆われている。
⑨復興天守
明治に一度、天守が再建されたが焼失。現在の天守は二度目の再建である。
⑩天守東側
⑪復興天守入り口
⑫天守から北側の眺望
正面の川は長良川。
⑬天守から西側の眺望
正面の川は長良川
⑭天守から南側の眺望
遠くに見える川は木曽川。
小説などを読んでいると斎藤勢は美濃に攻めこまれた時、稲葉山城に籠城し、敵が長良川や木曽川を越えた時に稲葉山から降りて奇襲を行なっている。確かに天守から敵の位置が丸見えなので、気づかれずに近づくのは無理であろう。
⑮伊奈波城趾之図
江戸時代に描かれた岐阜城址の図面。
山上には平地が少なく大人数の兵で守ることが出来ず、また地下水も無く雨水に頼らなくてはならないことから、動員力が増えた戦国末期には、この要害の城でも何度も落城した。
[岐阜城マップ]
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