2013/10/30

加納城跡

岐阜城の次は、その南にある加納城跡へ。

加納城は1445年に川手城の備えのため斎藤利永によって築城されたのが始まりだが、1538年にはすでに廃城となっている。
この地に再び築城されたのは関ヶ原の戦の後。岐阜城を廃城とし、その代わりとなる加納城を築き、家康の娘婿である奥平信昌が入城した。現在の加納城跡は、このときに築かれた城跡。司馬遼太郎の「国取り物語」では、稲葉山城を築くまでの斎藤道三の居城として何度も登場していたが、道三の時代は廃城となっており、実際には道三とは無関係の城らしい。この城を築くにあたり、岐阜城の天守や櫓が移築された。
明治後の廃城令により城は廃城処分となり建物は破却、城門などは売却された。現在は本丸跡とその周辺に石垣や堀跡などが残っている。



①天守台
加納城はJR岐阜駅の南側やや東よりにあるので、駅から徒歩で行くと、本丸北西隅の天守台が見えてくる。
岐阜城の天守は天守台では無く、二の丸北東隅に移築され御三階櫓となり、天守は建てられなかった。また本丸の周りには内堀があったが、全て埋められ、現在天守台の北側は児童公園となっている。




2013/10/26

岐阜城

鵜沼城跡の次は岐阜城へ。

岐阜城は標高329mの金華山の山頂に築かれた山城。鎌倉時代に二階堂氏が稲葉山(現在の金華山)に砦を築いたのが始まりとされる。ここに本格的な城が築いたのは斎藤利政(後の斎藤道三)で、道三亡き後も、信長は稲葉山城をなかなか攻略出来なかった。ようやく稲葉山城を攻略した信長は、稲葉山城を改修して岐阜城と名付け、本拠をここに移した。
関ヶ原の戦いのときは、信長の嫡孫である織田秀信が城主であったが、家康が到着する前に東軍に攻め落とされる。その後に廃城となり、天守や櫓などは加納城に移築された。

現在は岐阜城跡として国の史跡に指定され整備されており、山頂までロープウェイがあるので、簡単に山頂まで登ることが出来る。




①長良川対岸から見た岐阜城
岐阜城のある金華山の北側には長良川が流れており、その北方向だけでなく東西も急峻で、天然の要害を形成していた。山頂には復興天守が小さく見える。


2013/10/24

鵜沼城跡

犬山城に行ったついでに、木曽川を挟んで目と鼻の先にある鵜沼城跡へ。

鵜沼城は戦国時代前の室町時代に大沢氏によって築かれた。
戦国期には鵜沼城主大沢正秀の調略を命じられた秀吉(当時は藤吉郎)が自ら人質になったという話が小説には良く出てくるが、史実かどうかは怪しい。小牧・長久手の戦いで、犬山城攻略の拠点となった後に廃城となった。

以前は城山荘という旅館があったが閉鎖。その後は山自体は各務原市の所有になる。しかし付け根部分が私有地でなので、城跡には入れなかった。



①木曽川対岸から見た鵜沼城跡
木曽川に飛び出た地形のため、三方が川に囲まれ、しかも崖となっている。



2013/10/19

犬山城

大垣城の次は犬山城へ。
現存12天守、かつ国宝4天守に数えられる平山城。

犬山城は、信長の叔父である織田信康が木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築いた砦が前身。その後、何代も城主が替わり、関ヶ原の戦の前後に城郭が整備。江戸時代に尾張藩の付家老・成瀬正成が城主になって、現在のような姿に改修された。
明治の廃城令で、櫓や城門などの天守以外の建物はほとんど取り壊された。



①木曽川沿いの丘に建つ犬山城
犬山城の北から西は、木曽川が天然の水堀となっている。


2013/10/15

大垣城

2012年春の18切符の3つ目は南美濃方面の城攻めで、まずは大垣城。

大垣城は岐阜県大垣市郭町にあった平城。関ヶ原の戦で西軍の本拠地になったことで有名だが、その割にはこじんまりした城。
土岐氏支配のころに築城されていたが、堀や土塁など総囲いが整備されたのは斎藤氏支配時の氏家直元が城主のとき。その後、織田氏・豊臣氏と支配者が替わるとともに城主も替わり城も改修された。現在の城は、関ヶ原以降の石川氏3代による改修によるもの。明治の廃城令でも天守などの一部の建物は残っていたが、空襲により焼失した。

現在は、本丸・二ノ丸址が大垣公園として整備されており、天守や櫓が外観復元された。



①東門
大垣城の惣郭には七口之門と呼ばれる門があり、そのうちの一つ南西にあった柳口門が移築されたもの。移築とは言え、唯一の現存の建物。
JR大垣駅の徒歩圏内で、駅から南に延びる美濃路から少し西に位置するので、普通に駅から城に向かうと、この東門に着く。
工事のための前に停車していた軽トラックが邪魔すぎ。



2013/10/12

八幡山城跡

水口城の後は、八幡山城跡に。

八幡山城は、標高283mの八幡山に築城された急峻な山城。本能寺の変で灰燼に帰した安土城に替わる近江国の国城として秀吉が築いて、甥の豊臣秀次が入城した。秀次事件で秀次が切腹すると八幡山城も廃城。築城からわずか10年での廃城だった。

城跡は近江八幡駅から少し離れていてバスがでているのだが、バス待ちの間に歩いていたら、目的地に着いてしまった。また二之丸のすぐ近くまでロープウェイがあるので、ロープウェイを使用して八幡山城跡まで行ってきた。この手の山城は実際の攻略しづらさを実感するために自分の足で登りたいところだが、この日4つ目の城でバテてきていた&小雨が降っていて足元がぬかるんでいたということで足で登るのはあきらめた。



①八幡山全景と八幡堀
八幡山の麓には琵琶湖から水を引いた堀があり、防御だけでなく運河として利用していた。


2013/10/10

水口城

大津城跡の次は水口城へ。

水口城は家光が上洛の際の宿館として道中の水口に築かせた城。本丸に二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれたが、使用されたのは家光上洛の1回限りだった。
明治維新後に廃城となり、出丸と乾櫓の石垣を除いて大半が撤去された。



①模擬隅櫓
当時、出丸には平屋の建物しかなく、この櫓は模擬櫓。中は資料館となっている。



2013/10/08

大津城跡

大溝城跡の次は大津城跡。

大津城は、坂本城を廃城して秀吉が浅野長政に命じて築城させた城。しかし関ヶ原の戦で近くの長等山から大砲で砲撃を受けるなど攻防戦に不向きな城であることが露呈し、戦後は廃城となった。大津城の建築物の一部は彦根城や膳所城に転用、移築された。
遺構は残っておらず浜大津駅近くに石碑があるのみであるが、大津祭曳山展示館裏側にある石垣は大津城の石垣との噂もあるらしい。




①石碑
大津城の遺構は残っておらず、浜大津駅の北側の歩道橋を渡った先に石碑があるのみ


2013/10/05

大溝城跡

2012年春の18切符2つ目は南近江に行き、まずは大溝城跡。

大溝城は信長の甥・津田信澄が築城した。琵琶湖とその内湖を取り込んで築いた水城で、縄張りは舅である明智光秀と言われている。信澄は、本能寺の変で光秀への内通を疑われ信孝に殺害され、その後は色々と城主が入れ替わった。そのうちの一人が京極氏で、数年前の大河ドラマのせいか、地元は京極氏押しだった。(写真に見えるのぼりは京極氏)
江戸時代の一国一城令により廃城。現在は天守台に遺構が残っているのみである。



①天守台石垣南西面
天守台西側に天守台へ登る石段がある。