2014/01/25

黒井城跡

この冬も18切符を利用しての城攻めに行ってきた。まずは黒井城跡へ。

黒井城は標高356メートルの猪ノ口山に築かれた連郭式山城で、三方尾根伝いに曲輪群を配置し全山を要塞化していた。保月城(保築城)とも呼ばれる。
黒井城は南北朝時代に赤松貞範が築城し、戦国時代には悪右衛門こと赤井直正の居城となる。その後、信長が中央に進出すると、丹波平定のために光秀軍が黒井城を攻めるが、これを撃退する。しかし赤井直正は病死し、その子の赤井直義のときに落城。黒井城には光秀の重心の斎藤利三が入城した。秀吉時代には堀尾吉晴が入城するが、近江国佐和山へ転封となった後は廃城となった。



(1) 黒井駅からの道中からみる黒井城跡
黒井城はJR黒井駅のすぐ北にあり、駅からもよく見える。山頂付近が平らになっており、いかにも城跡だと分かる形状の山。



2014/01/18

宇陀松山城跡

この日は奈良県宇陀市にある宇陀松山城跡へ。

宇陀松山城は標高472m、比高120mの古城山に築かれた山城。築城時期ははっきりとわかっていないが、南北朝時代には構えられていたと思われる。また当時は秋山氏が居城としていたことから秋山城と呼ばれていた。
戦国時代末期に豊臣秀長が大和郡山城に入城すると、秋山氏は宇陀から退去。以後、加藤光泰などの秀長の家臣の居城となり、そのころの改修により近世城郭となった。
関ヶ原の戦いの後は福島正則の弟・福島高晴が入城し、さらに大改修を行った。しかし大坂夏の陣において高晴が豊臣方に内通したとして改易、宇陀松山城は廃城、城割された。
その後に入封したのは信長の次男・信雄だが、古城山の麓に居館を造り、城は再建されなかった。

現在では国の史跡に指定され、城割されたというものの、かなり遺構が残っていた。
近鉄大阪線榛原駅でバスに乗り換え。大宇陀行きのバスで終点まで行く。



①松山西口関門
大宇陀バス停は少し行き過ぎたところにあるので、川沿いに北に戻ったところに城下町の出入口にあたる松山西口関門がある。福島時代に建てられたもので、宇陀松山城の唯一の現存建物。




2014/01/16

柳生陣屋跡

柳生城跡と道路を挟んで向かいにある柳生陣屋跡。

秀吉により所領を没収された柳生氏は、関ヶ原の戦いで家康に与して旧領を回復。柳生陣屋を築いた。



①柳生陣屋跡
柳生陣屋跡の北側の階段を上がると平地になっている。南側は庭園になっており、ここが陣屋跡かと思って引き返した。しかし、後で分かったのだが、このさらに南が居館の遺構を活かした公園となっているらしいのに、気付かず見逃した。
柳生城跡といい、この日は失敗続き。




2014/01/13

柳生城跡

笠置城跡から南へ歩いて柳生の里へ。その柳生の里にある柳生城跡。

柳生城がいつ頃に築かれたのは不明だが、この城を居住とする柳生氏は戦国時代、筒井氏に攻められて、その麾下に入る。しかし豊臣時代に隠し田が露見して所領を没収され、その頃に廃城になったと思われる。

現在、芳徳寺や道場があるところが城跡だが、その東側にある小山が主郭。しかし、勘違いしてその南の小山をウロウロしていたため、主郭はスルーしてしまった。


①柳生城跡遠景
道路を挟んだ向かいにある柳生陣屋跡から、柳生城跡を見る。
正面の建物が道場なので、奥の小山に恐らく主郭があった。


2014/01/04

笠置城跡

笠置城は、京都府の南東部・奈良県境に位置する標高289メートルの笠置山に築かれた山城。
笠置山は山中の至るところに花崗岩の巨岩が露出し、山頂には磨崖仏の巨大な弥勒仏を本尊とする笠置寺が建立して、平安時代以降、弥勒信仰の聖地として栄えた。東西に流れる木津川の南岸にあり、東・北・西の三方が急斜面となっている要害の地で、後醍醐天皇が最初に挙兵したとき、ここに篭った。7万の幕府軍相手に善戦するが、1か月後に落城し、後醍醐天皇は隠岐に流された。



①笠置駅から見る笠置城跡
笠置城跡のある笠置山は駅から東にすぐの距離だが、この日は霧が濃くて全容が見えず。