2013/09/28

丸亀城

高松城の次は、同じ讃岐の丸亀城へ。
丸亀城は標高66mの亀山に築かれた輪郭式平山城。山麓から山頂まで4重に重ねられた石垣は、総高60mで日本一高い。現存12天守の一つだが、天守の大きさはその中で一番小さい。

丸亀城は高松藩主生駒氏が高松城の出城として築城。江戸時代になり一国一城令のため一旦廃城となるが、讃岐藩が東西に別れて西讃岐藩が成立したため、復活。その西讃岐藩は瀬戸内海を睨む要所となるため、築城の名手と言われた山崎家治が移封された。家治は全山を三段による石垣で囲い込む城に改修するが、家治の代では完成せず、その子・孫も夭折したため山崎氏は断絶。その後に城主となった京極氏の時代になってようやく完成、実に32年もの歳月がかかった。

現在は城跡の全域が国の史跡に指定されており亀山公園となっている。



(1) 丸亀城 遠景
JR丸亀駅が城の北側にあり、そこから歩いていくと、正に石垣と城というべき威容が目前に広がる。



2013/09/23

高松城

今年の夏の城攻め分が終了したので、また過去の城攻め分に戻り、2012年春の18切符を利用した城攻めで高松城。高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来して玉藻城とも呼ばれる。今治城、中津城とともに日本三大水城の一つに数えられている。

高松城は秀吉の重臣、生駒親正によって築かれた輪郭式平城。
豊臣秀吉の四国制圧の後、讃岐国の大名に封ぜられた生駒親正は始めは引田城に入城。しかし手狭なので、聖通寺城に移り、その後、高松城を築いた。関ヶ原の戦では真田親子と同様、親子で西軍と東軍に別れて戦い、東軍についた一正が高松城の城主となる。その後、親藩の松平頼重が移封してきて城主となり、城を改修した。現在見られる遺構は、この松平頼重によって改修されたものである。

維新後の廃城令によりほとんどの建物が取り壊され、また明治以降の都市化の波に呑まれて内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられ、城の総面積も、最盛期の約1/8まで減少している。しかし現在でも外堀と内堀には海水が引き込まれており、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。
また近年、天守の復元への動きがあるが、昔とは違ってかなり忠実な形でしか復元を認められなくなったため、天守の写真が一枚しかない高松城はなかなか難しそうである。


①弼櫓跡と西入口
高松城の北西側に櫓跡があり、その左側に西入口がある。
高松城の西側にJR高松駅があるので、普通の観光客はこの西入口から高松城へ入り、二の丸跡へ行く。



2013/09/21

丹波八幡山城跡

柏原陣屋跡の次は、すぐ近くにある丹波八幡山城跡へ。

丹波八幡山城は標高542mの清水山の南側の尾根線の先端に築かれた平山城で、丹波平定中の明智光秀が黒井城に対する付城として築いた。三方が急峻な崖となっており、残る尾根線上となる北側を大堀切とし、四方を急峻な崖とした付城とは思えない守りの固い城となった。

ここは元々八幡神社があったところだが、光秀の丹波攻めで戦火にあい、その跡地に城を築いた。黒井城落城後はその意義が無くなり廃城。山崎の合戦で明智氏滅亡後には、秀吉により八幡神社が再建された。

ただ、この八幡神社があるところは丹波八幡山城の南端の出丸にあたるらしい。城は南北に細長い縄張りで、北側に主郭があるが、藪が深い&遺構がほとんど残っていないらしいということで、パスした。


①八幡神社入り口
背後に見える小山が丹波八幡山城跡で、ここから城跡へ行く。




2013/09/17

柏原陣屋跡

加古川城跡の次は、加古川線に乗って丹波まで行き柏原陣屋跡へ。

柏原陣屋は織田信雄の孫・信休が中国山地の東端の中山間地域に築いた。
柏原藩は最初、信長の弟・信包が3万6千石で入り3代続くが嗣子なく断絶。その後は天領となるが、1695年に信雄の孫・信休が宇陀松山藩から移封、このときに柏原陣屋を築いた。以後、明治維新まで、10代にわたり織田氏が治めた。



①長屋門
長屋門は柏原陣屋の表門にあたり、創建時から残る唯一のものである。



2013/09/14

加古川城跡

今年の夏はお盆以降は天気の悪い日が多く、特に週末になれば必ずと言っていいほど天気が崩れたので、18切符をなかなか利用できない。最後の週末もやっぱり天気が不安定だったが、勿体無いので近場に行ってきた。

まずは加古川城跡。加古川城は、平氏追討の戦功により源頼朝よりこの地を与えられた糟屋有数が築城した平城。
戦国時代に播磨入りした秀吉が、ここで毛利討伐の軍議を開いたことで有名。この時、その軍議に出席した別所賀相が恥をかかされたことが、後の別所氏謀反の一因となった。また、この時の城主・糟屋武則は後に賤ヶ岳の戦いで武功をあげ七本槍のひとりに数えられるなどの活躍で、最終的には一万二千石の大名に出世した。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に付いたため、領土没収。加古川城は廃城になった。



①加古川城跡
現在の称名寺のある辺り一帯が加古川城の城跡であるが、遺構が全くと言っていいほど残っていない。



2013/09/08

田丸城跡

鳥羽城跡の次は田丸城跡に行ってきた。

田丸城は伊勢平野の最南端に位置する標高51.4mの丘陵に築かれた平山城。
南北朝時代に南朝方の北畠親房によって築かれた。戦国時代に入り織田軍の伊勢侵攻の結果、信長の馬鹿息子として有名な信雄の居城となり、三層の天守を備えた近世城郭へと改修される。しかし現在残っている田丸城はその信雄時代のものでは無い。信雄は天守が焼失すると松ヶ島城を築いてそこへ移り、蒲生氏郷、稲葉重通と城主が替わる。重通は関ヶ原の後に加増を受け田丸城の大改修を行い、現在の姿となった。その後は紀州藩の付家老・久野氏の居城となり幕末まで続いた。

田丸城跡はJR参宮線田丸駅の西側数百mとすぐ近くの距離にある。それにも関わらず、外堀の一部が埋められたのと三の丸跡に中学校が建っているのを除けば、当時の縄張りがほとんど残っており、かなり見応えがあった。





(1) 外堀
田丸駅から案内に従って西に進むと、田丸城跡の東南部の外堀に出る。写真のように結構な幅のある外堀がそのまま残っている。


2013/09/05

鳥羽城跡

今年の夏の18切符、3つ目は南伊勢から志摩方面の城攻めに行ってきた。
大阪からこの方面へは普通は近鉄で行くのだが、今回は18切符利用のためJRで行った。近鉄だと特急を利用しなくても鳥羽まで3時間ぐらいで行けるが、JRだと5時間近くかかった。やはりこの方面へは近鉄だな。

鳥羽城は九鬼嘉隆が三方を海に囲まれた要害の地に1594年に築かれた平山城。九鬼水軍の城らしく、大手門が海側に設けられていた。城の陸側は白壁、海側が黒壁になっており、その二色が錦になって、錦城とも呼ばれる。
関ヶ原の合戦で親子が分かれて戦うというと真田氏が有名だが、この九鬼氏も嘉隆・守隆の親子で東西に分かれて戦った。東軍についた守隆は鳥羽城を安堵されるが、守隆の死後は九鬼氏は内陸の摂津三田に転封され、その後は次々と城主が入れ替わった。九鬼氏の次に城主となった内藤忠重により、二の丸や三の丸が増設され、近世城郭としての体勢が整った。
明治に廃城となり、建造物が撤去されたと言うだけでなく、海側の斜面は道路や鉄道のために削平された。



①相橋と相橋門跡
鳥羽城の北側にある妙慶川は伊勢・志摩両国の境となった川で、鳥羽城の堀としても機能していた。江戸時代はこの北側に武家屋敷があったため、相橋を通って城に上がり、対岸には相橋門と呼ばれる城門があった。