2013/08/31

苗木城跡

今年の夏はあまりに暑かったので、7月の桶狭間関連の城跡以降なかなか城攻めに行けなかった。
暑さも少しマシになった8月下旬になって、ようやく18切符の2つ目を使用し、苗木城跡へ行ってきた。

苗木城は、木曽川の畔・標高432mの高森山に築かれた山城。別名、霞ヶ城や赤壁城とも呼ばれる。
鎌倉末期に遠山景長が高森山に砦を築いたのが始まり。戦国時代に入り、遠山直廉が苗木城を築いた。織田・武田の巨大勢力に挟まれるが、両者と縁戚関係を結び生き延びる。しかし本能寺の変後は豊臣方の森長可に城を落とされ、河尻秀長か城主となる。逆に関ヶ原の戦では、徳川方についた遠山友政が苗木城を奪い返し、この功により、遠山氏は再び苗木城主として返り咲いた。遠山氏による苗木藩はわずか1万石の小藩だが、それにしては立派すぎる城である。

最寄り駅はJR中津川駅だが、そこからバスで移動。北恵那バスの「加子母・付知・福岡」方面「付知峡倉屋温泉」行きの「苗木」停留所で下車。停留所からも少し離れているが、写真で見る急峻な山城をイメージしていると拍子抜けするほど、あっさり城跡まで行ける。
ただしバス停近くには苗木城跡への案内は全く無いので、苗木城までのコースは事前に調べておく必要あり。



1. 大手口
苗木停留所は城跡の北側にあり、そこから南に歩いて行くと、城跡北西の大手口に着く。
何となく後世の石垣っぽかったのだが、ここが大手道ならこの石垣も当時の遺構なのかな。


2013/08/24

鳴海城跡

桶狭間関連の城・砦跡、最後は鳴海城跡。
今川義元が討たれた後、総崩れになる今川軍のなかで、岡部元信が守る鳴海城は頑強に抵抗する。織田軍が攻めるも鳴海城を落とすことが出来ず、今川義元の首と引き換えにようやく開城する。

鳴海城は室町時代の前期、足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。戦国時代は山口教継が城主で、織田信秀に従っていたが、信秀の死後は今川義元に寝返り。力攻めでは落とせなかった信長は謀略により山口教継を排除(今川義元により切腹を申し付けられる)するが、その後釜にはもっと手強い岡部元信が城主となった。
桶狭間後は佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。

現在はただの児童公園となっており、遺構らしい遺構は残っていなかった。Wikipediaには「公園の近辺には空堀や土塁状の地形が存在する」とあるが、それらしいものは見当たらなかった。


①主郭跡
ただの児童公園。城跡らしいところと言えば、周囲より高い高台にあるところぐらい。



2013/08/17

中嶋砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、7つ目は中嶋砦跡。
善照寺砦を出た信長軍はそこから南進、中嶋砦に入った。ここで今川義元が田楽狭間で休息中との情報を入手。兵の半数を陥落した丸根砦・鷲津砦へ向けて彼らを囮とし、残りは田楽狭間へ向かう。そしてそこで今川義元の首を取った。

中嶋砦は、信長が鳴海城を囲むように築いた三砦の一つ(残る2つは丹下砦と善照寺砦)。桶狭間の戦いで今川義元の首が取られると今川軍は撤退。それとともに、中嶋砦の役割も終わった。



①中嶋砦跡
中嶋砦は扇川と手越川の合流地点に位置していた平城。遺構は何も残っておらず、川もコンクリートで固められているが、その川に挟まれた三角地帯に砦跡の面影を見ることが出来る。


2013/08/10

善照寺砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、6つ目は善照寺砦跡。
丹下砦を出た信長は、10時頃に善照寺砦に入る。ここでまた軍勢を整える。

善照寺砦には鳴海城の東に伸びた丘陵の東端にある平山城。今川方となった鳴海城に対する牽制のために、丹下砦・中島砦とともに築かれた。

現在の城跡は砦公園として整備されているが、あまり遺構は残っていない。



①砦跡南東側
この方向から見ると、善照寺砦は結構な高さがあったことが分かる。



2013/08/04

沓掛城跡

桶狭間関連の城・砦跡、5つ目は沓掛城跡。
5/19朝、今川義元が沓掛城から出発する。17日にこの城に入城し、ここから大高城への兵糧入れや鷲津砦丸根砦への攻撃命令を出していた。

沓掛城は、北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差する交通の要衝に建てられた平城。応永年間(1394-1428)に城が築かれ、以後、近藤氏が沓掛城主となっていた。戦国時代に入り、城主・近藤景春は織田信秀の勢いが強いときは信秀に従い、信秀の死後は今川義元の傘下に入った。
桶狭間で義元が討たれた後は、織田軍により沓掛城は落城。城主の近藤景春は討ち死にし、桶狭間の戦いで勲功一番とされた簗田政綱が沓掛城の城主となった。
関ヶ原の戦いでは、そのときの城主・川口久助は西軍に参陣。敗戦後に廃城となった。

現在、城跡は「沓掛城址公園」として整備されており、本丸、空堀、諏訪曲輪などの遺構が良好な状態で保存されている。
最寄り駅は前後駅だが、駅からは離れているのでバスで移動。バス停も少し遠いので、それなりに歩く必要あり。



①空堀
バス停は南側にあるので、そこから歩いて行くと、大手門跡から城跡に入る。
その大手門跡の左(西)側には空堀が良好な状態で残っている。