桶狭間関連の城・砦跡、最後は鳴海城跡。
今川義元が討たれた後、総崩れになる今川軍のなかで、岡部元信が守る鳴海城は頑強に抵抗する。織田軍が攻めるも鳴海城を落とすことが出来ず、今川義元の首と引き換えにようやく開城する。
鳴海城は室町時代の前期、足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。戦国時代は山口教継が城主で、織田信秀に従っていたが、信秀の死後は今川義元に寝返り。力攻めでは落とせなかった信長は謀略により山口教継を排除(今川義元により切腹を申し付けられる)するが、その後釜にはもっと手強い岡部元信が城主となった。
桶狭間後は佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。
現在はただの児童公園となっており、遺構らしい遺構は残っていなかった。Wikipediaには「公園の近辺には空堀や土塁状の地形が存在する」とあるが、それらしいものは見当たらなかった。
①主郭跡
ただの児童公園。城跡らしいところと言えば、周囲より高い高台にあるところぐらい。
②東福院山門
鳴海城の北にある東福院の山門は、鳴海城の廃材が使われていると言われる。
[鳴海城跡マップ]
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