庭瀬城跡の次は津山線で北上して津山城へ。
津山城は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山に築かれた梯郭式平山城。姫路城・松山城とともに日本三大平山城に選ばれている。
室町時代に美作国の守護大名であった山名氏が鶴山に鶴山城を築いたのが始まり。しかし応仁の乱で山名氏が衰退すると廃城となった。
江戸時代に森忠政(有名な蘭丸の弟)が18万6千石で入封すると、鶴山城跡に津山城を築城、5層の天守及び櫓や城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ大規模な近世城郭で、往時は広島城の76棟、姫路城61棟に次ぐ櫓の多さであった。
その後、森氏は断絶、広島藩浅野氏預かりになった後、親藩の 松平宣富が入封。幕末まで松平氏が城主であった(またもや外様大名が心血を注いで築いた名城を親藩・譜代が横取りするパターン)。
明治後の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみとなった。
現在は鶴山公園として整備され、また平成に入ってから備中櫓が復元された。
(1) 津山城遠景
吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線としている。
2013/11/09
2013/06/26
松山城
今治城の次は、今回の四国城攻めのメインイベント・松山城へ。
松山城は松山市の中心部、標高132mの勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城で、関が原の合戦での功により加増された加藤嘉明が築城した。その後、加藤氏は転封、替わりに入封した蒲生氏は断絶したため、松平氏が入封して親藩として明治維新を迎える。維新後においても本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはなく、昭和に入り放火や戦災により一部の門や櫓などが焼失したものの当時の遺構がかなり残っている。
現在は21棟もの建築物が重要文化財に指定されており、これは姫路城に次いで2番めに多い。(もっとも姫路城は74棟とまさに段違いの多さだが。)
さらに焼失した建築物も昭和40年代から本格的な木造による復元が行われている。
また日本100名城、日本三大平山城(他は姫路城と津山城)、日本三大連立式平山城(他は姫路城と和歌山城)に選ばれている。
この日に松山に着いたのは夕方で、すでに本壇への入場時間は終了していた。この日は松山で一泊して、夕方と翌朝に松山城を見学。その夕方と翌朝の写真が混在していて時系列としてはバラバラだが、一定のコースに沿って並べてみる。
<二之丸西側から登城>
JR松山駅から来ると城の南西部に着くので、二之丸西側から大手道(黒門口登城道)を通って、松山城へ登城する。
(1) 三之丸跡と本壇
城山南西山麓に三ノ丸跡があり、その周りの堀も現存している。
JR松山駅から歩いて城に向かうと、三ノ丸南側の道路を通るので、三ノ丸と水堀ごしに松山城の勇姿が見えてくる。
松山城は松山市の中心部、標高132mの勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城で、関が原の合戦での功により加増された加藤嘉明が築城した。その後、加藤氏は転封、替わりに入封した蒲生氏は断絶したため、松平氏が入封して親藩として明治維新を迎える。維新後においても本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはなく、昭和に入り放火や戦災により一部の門や櫓などが焼失したものの当時の遺構がかなり残っている。
現在は21棟もの建築物が重要文化財に指定されており、これは姫路城に次いで2番めに多い。(もっとも姫路城は74棟とまさに段違いの多さだが。)
さらに焼失した建築物も昭和40年代から本格的な木造による復元が行われている。
また日本100名城、日本三大平山城(他は姫路城と津山城)、日本三大連立式平山城(他は姫路城と和歌山城)に選ばれている。
この日に松山に着いたのは夕方で、すでに本壇への入場時間は終了していた。この日は松山で一泊して、夕方と翌朝に松山城を見学。その夕方と翌朝の写真が混在していて時系列としてはバラバラだが、一定のコースに沿って並べてみる。
<二之丸西側から登城>
JR松山駅から来ると城の南西部に着くので、二之丸西側から大手道(黒門口登城道)を通って、松山城へ登城する。
(1) 三之丸跡と本壇
城山南西山麓に三ノ丸跡があり、その周りの堀も現存している。
JR松山駅から歩いて城に向かうと、三ノ丸南側の道路を通るので、三ノ丸と水堀ごしに松山城の勇姿が見えてくる。
登録:
投稿 (Atom)
