高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた梯郭式平山城。
大高坂山には、南北朝時代に大高坂山城があったとされるが北朝側に敗退後に廃城となる。豊臣時代に長宗我部元親が大高坂山に再び城を築き、関が原の合戦後に土佐に入封した山内一豊が現在の縄張りの城を築城した(完成したのは、2代忠義の時代)。しかし江戸中期の享保の大火で、天守を始めほとんどの建物が焼失した。現在残っているものは、その後に再建されたものである。
維新後の廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。
(1) 追手門、追手門西南矢狭間塀、追手門東北矢狭間塀(いずれも重要文化財)
高知城の大手口。当初は大手門と呼ばれていたが、1747年に追手門と改称されたと言う。内枡形門の構造だが、手前に一の門を配置していないので、本来の防御力は発揮されない。
享保の大火で焼失しなかった数少ない建造物。