2013/06/30

高知城

18切符を使った四国城攻め旅行の最終日は高知城へ。前日は宇和島城攻めのあとの夕方に出発して夜に高知入りした。この長い移動時間を、城攻め出来ない夜にあてた。

高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた梯郭式平山城。
大高坂山には、南北朝時代に大高坂山城があったとされるが北朝側に敗退後に廃城となる。豊臣時代に長宗我部元親が大高坂山に再び城を築き、関が原の合戦後に土佐に入封した山内一豊が現在の縄張りの城を築城した(完成したのは、2代忠義の時代)。しかし江戸中期の享保の大火で、天守を始めほとんどの建物が焼失した。現在残っているものは、その後に再建されたものである。

維新後の廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。




(1) 追手門、追手門西南矢狭間塀、追手門東北矢狭間塀(いずれも重要文化財)
高知城の大手口。当初は大手門と呼ばれていたが、1747年に追手門と改称されたと言う。内枡形門の構造だが、手前に一の門を配置していないので、本来の防御力は発揮されない。
享保の大火で焼失しなかった数少ない建造物。




2013/06/29

宇和島城

昨夏の18切符を利用しての四国城攻め旅行の2日目、大洲城の次は宇和島城へ。

宇和島城は標高77mの城山に築かれた平山城。
鎌倉時代にこの地を勢力化に置いた西園寺氏が築いた丸串城が始まり。戦国時代には大友氏や長宗我部氏等の攻撃を凌いだが、秀吉に降伏。豊臣時代に入城した藤堂高虎が大改修して現在の縄張りを築いた(天主などの建物は、江戸時代になってこの地に入封した伊達氏によるもの)。外郭は五角形で、そのうち二辺が海に面し、残り三辺は海から接続する堀によって囲まれる海城であった。
維新後に大半の建物が撤去。三辺の堀だけでなく、残る二辺の海岸も埋め立てられ海城の面影は無くなった。天守以外で残っいた追手門も空襲により焼失して、現在は天守と上り立ち門、石垣が現存する。

ちょうど宇和島城保存整備工事中ということで、あちこちでブルーシートを見かけ、通行できない場所も色々あった。本丸と現存天守が無事だっただけで良しとすべきだが、辺鄙な場所でそうそう行けないだけに、残念だった。



①桑折氏武家長屋門
藩の家老・桑折(こおり)氏の長屋門として使用されていたが、道路拡張時に撤去されここに移転。当時は間口が35mと実に立派なものであったが、移転場所がせまいため向かって左方の大部分が切り取られて間口15mほどと半分行かになってしまった。



2013/06/28

大洲城

昨夏の18切符での四国城攻め旅行の2日目。松山城の次は伊予大洲に向かい、大洲城へ。

大洲城は鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房が築城したのが始まり。戦国時代になると毛利氏、長宗我部氏、豊臣氏と次々と支配者が替わり、豊臣時代に藤堂高虎、江戸時代初期に洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
維新後の廃城令でも本丸の天守・櫓の一部は保存されたが、天守は老朽化等により明治21年に解体された。その後、平成になってから天守が木造で復元された。

城では何故か竜馬押し。竜馬の幟があちこちに立っていたが、大洲城と坂本龍馬ってほとんど接点が無かったはず。脱藩したときに大洲藩を通って長州に行ったというのと、海援隊が運用していた「いろは丸」が大洲藩の所有物というぐらい。大洲藩との接点は無いことも無いが、藩との接点も弱い上に城となると全く接点が無い。竜馬は一度も大洲城に登城すらしていないだろう。

いくら大河ドラマでやっていた人気者とはいえ、ほとんど関係無い人で客寄せするのはどうかと思う。せっかくの木造復元天守と重文の現存櫓が泣くいているぞ。



①肱川の河畔に望む大洲城
伊予大洲駅から大洲城へ向かっている途中、紘川に架かっている紘川橋から。



2013/06/27

湯築城跡

松山に一泊してから翌朝に松山城本壇に入ったが、その開城時間までの間に、近くの湯築城跡にも行ってきた。

湯築城は南北朝時代に伊予国守護河野氏によって築城された梯郭式平山城。戦国時代に入り長宗我部元親が台頭してくると、その圧力に抗しきれず降伏。さらに豊臣秀吉の四国平定に際して小早川隆景軍に湯築城を開城、秀吉の四国平定後に廃城となった。現在は道後公園として整備されている。

正直、この程度の城跡が何故日本100名城に選ばれたのか不思議でならない。
かなり整備されているとは言えるが、規模は小さい上に復元されたものばかりで当時の遺構はあまり無いし、この城が歴史的に重要な役割を果たしたわけでも無いし、愛媛県は他にも日本100名城に選ばれた城が多く(5個指定は最も多い県)、都道府県のバランスを考慮されたわけでも無い。本当に謎だ。


①西口
市電の道後公園駅すぐそばが西口となる。当時は搦手門があった。




2013/06/26

松山城

今治城の次は、今回の四国城攻めのメインイベント・松山城へ。

松山城は松山市の中心部、標高132mの勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城で、関が原の合戦での功により加増された加藤嘉明が築城した。その後、加藤氏は転封、替わりに入封した蒲生氏は断絶したため、松平氏が入封して親藩として明治維新を迎える。維新後においても本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはなく、昭和に入り放火や戦災により一部の門や櫓などが焼失したものの当時の遺構がかなり残っている。

現在は21棟もの建築物が重要文化財に指定されており、これは姫路城に次いで2番めに多い。(もっとも姫路城は74棟とまさに段違いの多さだが。)
さらに焼失した建築物も昭和40年代から本格的な木造による復元が行われている。
また日本100名城、日本三大平山城(他は姫路城と津山城)、日本三大連立式平山城(他は姫路城と和歌山城)に選ばれている。

この日に松山に着いたのは夕方で、すでに本壇への入場時間は終了していた。この日は松山で一泊して、夕方と翌朝に松山城を見学。その夕方と翌朝の写真が混在していて時系列としてはバラバラだが、一定のコースに沿って並べてみる。


<二之丸西側から登城>
JR松山駅から来ると城の南西部に着くので、二之丸西側から大手道(黒門口登城道)を通って、松山城へ登城する。



(1) 三之丸跡と本壇
城山南西山麓に三ノ丸跡があり、その周りの堀も現存している。
JR松山駅から歩いて城に向かうと、三ノ丸南側の道路を通るので、三ノ丸と水堀ごしに松山城の勇姿が見えてくる。


2013/06/25

今治城

福山城の後は尾道経由で今治城へ行った。ただしこの尾道・今治ルートはバスで移動。せっかく18切符を使用しているのでJRで行きたいところだけど、鉄道が無い以上仕方が無い。
福山や尾道では天気が悪かったが、ここへ来て晴れてくれた。予報でも悪かったので、本当にありがたい。

今治城は関が原の合戦の功により伊予半国を与えられた築城の名人・藤堂高虎が築いた城で、普請奉行は槍の勘兵衛こと渡辺了。構造は三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることがでた。築城当時は天守も存在したが、高虎によって丹波亀山城へ移築され、その後は天守は存在しなかった。 また維新後の廃城令により城内の建物はすべて取り壊された。

現在、遺構としては石垣と内堀が残るだけだが、昭和に5重6階の天守が鉄筋コンクリートで再建。平成になってからは鉄御門や多聞櫓5棟が可能な限り江戸時代の史実に基づいた形で復元している。
高松城、中津城とともに日本三大水城の一つに数えられている。



①西側から見た今治城
今治駅が西にあるので、そこから今治城へ行くとこの角度の今治城がまず目に入る。
広い幅の内堀に高石垣という防御力が高そうな縄張りであることが分かる。


2013/06/24

福山城

12-13年冬の18切符分が終わったので、さらに遡って去年の夏の18切符分を。
18切符では基本日帰りばかりだったが、この夏の一発目は18切符を使っての泊まりがけでの四国城攻め旅行。まずは四国上陸前に、対岸の福山城から。
(尾道でやっていた「海フェスタおのみち」でのラバーダックを見るため尾道に寄ったので、児島・坂出ルートでは無く尾道・今治ルートで行った)

福山城は1622年に完成した、新規の築城としては近世城郭で最も新しい城。
関が原の合戦以後にこの地を治めていた福島正則が改易されたあと、西日本に対する抑えとして水野勝成が転封され、福山城を築いた。そのため、この城は10万石ながら5重の天守や三重櫓7基を始めとした20以上を数える櫓を持つ破格の巨城であった。
維新後の廃城令で一部の建物を除いて売却・解体され、その際に残った天守なども空襲で焼失した。

現在は、戦災を免れた伏見櫓、筋鉄御門の2つが現存として残っており、天守、月見櫓、御湯殿が復興再建されている。


①JR福山駅前から見た福山城
駅から外に出てすぐ目の前に高石垣がある。二之丸帯曲輪石垣で、その上に見えるのは月見櫓。




2013/06/23

長浜城

三成の佐和山城跡の次は秀吉の長浜城に行った。

長浜城は秀吉が初めて一国一城の主となり築いた平城。小谷城落城後、その浅井攻めの功によりこの地を与えられた秀吉は、山中にある小谷城では領国支配に不適当なため、水陸両路の要衝である長浜に新たに築城した。この時、小谷城で使われていた資材等が使用された。
関ヶ原の戦の後に廃城となり、資材の大半は今度は彦根城の築城に流用されて、長浜城は跡形もなくなくなった。



①模擬天守
犬山城や伏見城をモデルにして再建されたもの。姿形が異なるだけでなく、場所も本来の位置とは違う模擬天守。
名称も「長浜城」では無く、あくまで「長浜城歴史博物館」ということなっている。


佐和山城跡

最初の彦根城攻めのとき、その次に石田三成の居城として有名な佐和山城跡も攻めた。

佐和山城は標高232.9mの佐和山に築かれた連郭式山城。
鎌倉時代に近江守護職の佐々木氏が築いた砦がその起源で、戦国時代は浅井氏の支配時は磯野員昌、信長の支配時は丹羽長秀が城主であった。
本能寺の変後は秀吉の支配下になり、秀吉配下の武将が何人か城主になった後に石田三成が入城した。三成は佐和山城の大改修を行って山頂に五重の天守を持つ近世城郭を築き、当時「治部少に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われるぐらい壮大な規模を誇った。
関ヶ原の戦いで三成が敗北すると東軍が佐和山城を攻撃、三成の父・正継の元でよく守ったが落城。その後、この地に入封した井伊直政は平地に彦根城を築き、佐和山城は廃城となっただけでなく、徹底的に破壊された。

井伊氏のもと徹底的に破壊されたせいか、遺構はかなり寂しい状況だった。ただこの日の登城ルートのせいかも。当時は佐和山の東側が大手口であったが、彦根駅からでは大回りになるのでパスして、裏手となる西側から登城したので。次回は、大手口である東側から攻めてみたい。



①佐和山城跡遠景
JR彦根駅から佐和山城跡のある佐和山を見る。



2013/06/22

彦根城 (雪)

12-13年冬の18切符ラストとなる二度目の彦根城。
一乗谷城跡へ行った翌日は、北陸地方の雪がさらに南下。彦根の前夜の予報が雪だったので、今度は雪の彦根城を期待して彦根城に行ってきた。


①いろは松
中堀沿いの松並木で、江戸時代「松の下」と呼ばれていた。当時47本植えられていたことから「いろは47文字」にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになった。



2013/06/21

彦根城

12-13年冬の18切符のラストは現存12天守の一つ、彦根城へ。
この彦根城も二度目なので、まずは2011年に行った一度目の城攻めを投稿。

彦根城は、井伊氏が金亀山に築城した連郭式平山城。
関ヶ原の戦いの後、石田三成の近江北東部18万石を与えられた徳川四天王の一人・井伊直政は、石田三成の居城である佐和山城は山城では不便なのと三成の威光を払拭するために新たに平地に城を築いた。直政は関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、ほどなく死去したが、その子・直継が引き続いで築城した。この時、コスト削減と工期短縮のために多くの建物や石材が他の城から移築転用された。
彦根城は井伊氏の居城のまま維新まで続き(幕末の井伊直弼はこの15代城主)、維新後の廃城令では彦根城も破却の運命であったが、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。

太平洋戦争でも空襲を免れ、天守・附櫓および多聞櫓が国宝に指定されているほか、櫓・門など5棟が現存して国の重要文化財に指定されている。また現在、世界遺産登録へ向けて動いている。(ただし暫定リストに登録されたまま、20年以上登録は見送られている。)


①中堀越しに見る彦根城
JR彦根駅から彦根城へ向かうと、佐和口から彦根城に入城することになる。
正面に二の丸佐和口多聞櫓とその向こうに天守が見える。
現在では佐和口が正面口のようになっているが、往時の彦根城は大坂城に対する徳川最前線となるため、南西側の大手口が文字通り正面口であった。




2013/06/20

一乗谷城跡

12-13年冬の18切符4つ目は一乗谷城跡。どうせなら雪景色での朝倉館唐門を見たくて、雪予報のときに行ってきた。
山麓の城下町と山城である一乗谷城を合わせて一乗谷朝倉氏遺跡と呼ばれているが、さすがに雪の中を登山するわけには行かず、この日は朝倉館等がある山麓側のみ。

一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害であった。しかし小谷城へ援軍に行き、信長軍に敗れて越前に撤退すると、信長軍は大挙して追撃。この撤退途中でも大敗して山城に籠城する戦力も残らなかった朝倉義景は、一乗谷を放棄し大野へ逃れる。そして一乗谷は侵攻してきた信長の軍勢により火を放たれ灰燼に帰した。信長支配後は柴田勝家が本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
現在は朝倉義景館唐門が現存するほか庭園が発掘され、特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡として整備されている。

期待どおりの雪景色でその点は満足だったが、帰りは雪が激しくなってきて、九頭竜線が止まったらどうしようと、ちょっと心配になった。



①下城戸の土塁
一乗谷は足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷)に築かれた。そのため防御用に、谷の出入り口である南北に土塁を築いて城門を配した。これはその北側の下城戸。
九頭竜線・一乗谷駅から南へ歩いていくと、まずはこの土塁がお出迎え。


2013/06/19

上月城跡

英賀城跡の次は、山中鹿之介の最期で有名な上月城跡へ。

上月城は南北朝時代の初期に、赤松氏の一族上月景盛によって築かれた。播磨・美作・備前の三国の国境に位置しており、戦国時代の前から何度も攻防戦が行われた。
秀吉の播磨進出時は赤松政範が入城していたが、秀吉軍に攻められて落城。一度宇喜多勢により落城させられるが、その後秀吉軍が再度奪還し、尼子勢が入城した。しかし荒木村重や播州勢が織田方を寝返ると、毛利軍が3万の大軍で包囲。織田軍も援軍を出すが、毛利勢は力攻めを行わず周辺の山に陣地を構築し守備を固めて両者にらみ合いが続く。ここで信長は播磨平定を優先させ織田軍の援軍は撤退。上月城は捨て石にされた。尼子一族の自刃を条件に開城降伏し、山中鹿之介は毛利本国に護送途中で誅殺された。

毛利軍に3万もの大軍で攻められたにしては小規模な山城だった。この程度の山城に対して、なぜ3万もの大軍を動員したのだろうか。



①上月城跡遠景
上月城のある標高140mの荒神山。


2013/06/18

英賀城跡

小寺城跡の次は、姫路駅の1駅向こうにある英賀保駅近くにある英賀城跡へ。
小寺城・三木城とともに、播磨三大城と呼ばれていた。

英賀城は室町時代初期に赤松祐尚によって築かれたと云われる。赤松氏の勢力が弱まった後は、代々三木氏の居城となった。戦国時代になると城内に英賀御坊が建立され真宗勢力も拡大した。秀吉が三木城を落城させた後に、英賀城も落城した。

現在は、英賀神社に土塁が残っているのみで、市街地に埋没してしまっている。



①英賀城本丸跡石碑
道路わきに石碑があるのみで、周りは市街地。


御着城跡

12-13年冬の18切符3つ目は西へ行っての播磨の城攻め。
まずは姫路駅の1つ手前にある御着駅近くにある御着城跡。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。

御着城は播磨守護赤松氏の家臣・小寺政隆が築いた。有名な黒田官兵衛はこの小寺氏に仕えており、織田軍が播磨に侵攻した際に主家を織田方につける。しかし後に官兵衛を裏切って、荒木村重や別所氏とともに毛利方に寝返り、その後、秀吉に落城させられる。廃城後、江戸時代には御着本陣が置かれていた。

本丸付近は現在、姫路市役所東出張所や御着城跡公園などになっている。



①姫路市役所東出張所
姫路市役所東出張所は本丸跡に建てられており、その外観は城郭風になっている。



2013/06/17

津城跡

松坂城跡の次は津城跡へ寄った。

津城は、信長の弟・信包によって築城された輪郭式平城。その頃は安濃津城と呼ばれ五層の天守もあったが、関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受けて城内の建造物の大半を焼失した。その後、伊予今治から移封されてきた藤堂高虎によって城の大改修を行われた。この頃から津城と呼ばれるようになり、以後、維新まで藤堂氏の居城となった。

維新後は廃城令により櫓等の建造物は破却され、現在では本丸・西の丸・内堀の一部を残すのみとなったが、「お城公園」として整備され、藩校有造館の正門の入徳門の移築や模擬櫓を再建している。



①内堀と玉櫓台石垣
ここから西之丸に入る。



2013/06/16

松坂城跡

一度目の亀山城の時も18切符を使っていたので、その後はさらに足を伸ばして松坂城跡へ。

松坂城は蒲生氏郷によって築かれた梯郭式平山城。伊勢国に移封された日野城主・蒲生氏郷は最初松ヶ島城へ入城した。しかし、伊勢湾に面した松ヶ島では城下町の発展性が無いと考え、この地に築城した。このとき、秀吉の居城「大坂城」の一字をを拝領して「松坂城」と命名した。(だから「松阪城」では無く「松坂城」)
蒲生氏郷が徳川家康と伊達政宗の牽制のために60万石という大封を得て会津に移封した後は、服部一忠が入城した。服部一忠と言われて分かる人はほとんどいないだろうが、若い時の名前は服部小平太…つまり桶狭間で今川義元に一番槍を付けた人物である。(私も、このBLOGを書くために調べていて初めて知ったw) 桶狭間以降は信長の下で目立った戦功が無く、秀吉に仕えた後に小田原攻めで戦功をあげて松阪城主に抜擢された。(しかし後の秀次事件の時に連座責任で切腹した)
江戸時代初期には紀州藩の藩領となり、城代が置かれるようになった。
維新後の廃城令等により建造物は破却されたが、現在は「松阪公園」として整備され、日本100名城にも指定されている。

とにかく城の四方に積まれた高石垣が素晴らしい(北西の辺だけは見ていないが)。氏郷は安土城の築城にも加わったが、そのときに石垣を築いた「穴太衆」と呼ばれる近江国の石工集団を使って、松坂城を築いた。



①登城口
松阪駅の北側にある大通りに出て、そこから西に進むと松坂城の登城口に出る。
いきなり石垣の連なりを見せられて、否が応にも期待が高まる。



2013/06/15

亀山城 (2012)

2度目の亀山城。前回は多門櫓が工事中だったので、この近くを通った今回、真っ先に見に行った。
(工事完成はこの日の翌々日となっていて、実はまだ工事中だった(^^ゞ)

伊勢亀山城は、伊勢国鈴鹿郡亀山にある梯郭式平山城。源平の時代に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって築城された。
現在の伊勢亀山城は、豊臣秀吉に従った岡本宗憲が入城後に、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成された。
江戸時代には誤って天守が解体され(丹波亀山城と伊勢亀山城を間違えた)、その後に天守台の上に多聞櫓が築造された。

多門櫓が唯一の見どころと思っていたが、そこ以外にも結構みどころがあった。
初期に見に行った城跡は、事前調査が足らずかなり見落としている。



①多門櫓南東面
多聞櫓は漆喰の白壁にて復活。修復工事前は黒い板壁だったが、江戸時代末期の姿に戻った。
江戸時代に建てられた現存の櫓なのに、何の文化財にも指定されていない。現存櫓で、文化財に指定されていないのは、ここぐらいでは。



亀山城 (2011)

今回の18切符を利用した伊勢の城攻めでは、最初に亀山城へ行った。ここも2度目だったので、まずは2011年に行った1度目のを投稿。
唯一の見どころと思っていた現存の多門櫓が工事中だったので、さっと見ただけで次に行った。

二度目のはその工事が終わった多門櫓を見に行ったのだが、それは別投稿で。



①天守台
天守台の上に乗っている多聞櫓は三重県で唯一の江戸時代の城郭建造物。しかし、修理工事中だった。何のためにここまで来たのやら…




2013/06/14

長島城跡

桑名城跡の次は長島城跡へ。

長島城は木曽川と長良川・揖斐川に挟まれた「輪中」の中の城。
長島本島は木曽三川によって隔絶されており、更に渡河の為に必要な周囲の要所にも砦が築かれた天然の要害で、戦国時代には長島一向一揆の拠点となった。そのため信長軍は苦戦を強いられたが3度目でようやく落城。その後は滝川一益の支配下になる。豊臣・江戸時代と城主が替わって維新に至り、廃城となった。現在は、ほとんど遺構が残っていない。




①本丸跡
本丸跡には長島中学校と長島中部小学校が建っている。



桑名城跡

神戸城跡の次は、桑名へ行って桑名城跡へ。

桑名城は徳川四天王の一人、本多忠勝が築いた水城。
その起源は鎌倉時代で、桑名行綱がこの地に城館を築いたのが最初だと言われる。戦国期には伊藤氏が支配し、信長侵攻後は滝川一益が治めた。秀吉時代は城主が目まぐるしく変わり、江戸時代には本多忠勝が入城、忠勝により櫓五十一基、多聞四十六基という巨大城郭が完成させる。
幕末の藩主・松平定敬は京都所司代として京都の治安を預かり、禁門の変後に朝敵となった長州藩士を京都で見つけたら補殺していた。そのため長州藩から憎まれ、戊辰戦争では官軍に降伏するも許されず、城は灰燼に帰した。そのため、遺構はあまり残っておらず、石垣もほとんどが積み直したものである。

城跡が九華公園となっているので、その公園内はウロチョロしたのだが、公園外を見落としていた。公園の北の川岸には蟠龍櫓が復元されており、その途中の堀沿いの石垣は当時の遺構らしい。事前の調査が足りなかった orz


①三の丸堀
桑名駅からまっすぐ東に行くと、まず堀と石垣がある。この堀は三の丸堀で、その向こうは三の丸跡だと思われる。ただし、この石垣は遺構かどうか不明。ここより北側の河口に近い部分は当時の遺構らしいが、そっちは見落としてしまった。


2013/06/13

神戸城跡

12-13年冬の18切符の2つ目は、東へ向かっての伊勢の城攻め。
最初に行ったのは亀山城だが、これは後回しにして神戸城跡から投稿。神戸と言っても兵庫県ではなく、鈴鹿の近くにある神戸城。読み方も「こうべ」では無く「かんべ」。

神戸城は、伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏が戦国時代にこの地に移って築いた。その後、信長軍の侵攻に耐えきれず信長の三男・信孝を養子に迎えて和睦。その信孝は、ここに五重の天守を築くが、本能寺の変後に岐阜に移る。秀吉の天下になった後に天守は桑名城に三重櫓として移され、江戸時代を通じて天守が建てられることは無かった。
維新後は解体されて、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。



①南東側から見る天守台
こちら側は本丸跡で、そこから見た天守台。北東に小天守と南西に付櫓がある複合式の天守であったらしい。
写真右(北東)に天守台に登る石段があるので、入り口は小天守にあった?


2013/06/12

長光寺城跡

日野城跡の次は長光寺城跡へ。

長光寺城は標高234m、比高135mの瓶割山の山頂に築かれた山城。鎌倉時代に佐々木政尭によって築かれたと伝えられる。織田信長が南近江に侵攻した時に、柴田勝家が古城を修復して入る。その後、六角義賢に攻め寄せられ水源を絶たれた柴田勝家が、残された水瓶をこ叩き割って味方を鼓舞し敵陣に討ち入って勝利を得たという伝承から、瓶割城とも呼ばれる。信長が安土城を築いた頃には廃城となったようだ。



①長光寺城跡遠景
長光寺城跡のある瓶割山を北側から見る。




2013/06/11

日野城跡

18切符を利用した城攻め。春の分が終わっので遡って、12-13年冬の分。
この冬の18切符の一発目は、また滋賀県。信長の娘婿・蒲生氏郷の城で有名な日野城跡へ。

日野城は六角氏の重臣・蒲生定秀(氏郷の祖父)が築城した平山城。
信長上洛時に主家の六角氏が滅ぼされると、信長に臣従して旧領を安堵される。本能寺の変が起こったときに、安土城の留守役を勤めていた賢秀・氏郷父子が信長の妻女をこの日野城に迎え入れた。その後、氏郷は秀吉に仕えて伊勢国松ヶ島へ転封。日野城は関が原の戦いの後に廃城となったが、江戸時代に城跡北東部に陣屋が構えられた。

現在は北側の土塁と濠が残存しているが、南側は日野川ダムの造成時に土塁などが壊された。
最寄り駅は近江鉄道日野駅。そこからさらに近江鉄道バスの日八線・北畑口行きに乗って仲出町停留所で下車。(その手前の「日野川ダム口」の方が近かったかも)



①本丸北東部の土塁
この石垣は江戸時代のもの。
12月上旬は紅葉の季節は終わっているが、その落ち葉がまだ色づいていて綺麗だった。


2013/06/10

雑賀城跡

太田城跡の次は雑賀城跡へ。
雑賀城は妙見山上に建つ平山城。鉄砲で有名な雑賀衆の本拠だが、信長による紀伊攻めの時に落城した。
現在は明確な曲輪が残っておらず、古城跡の面影はほとんど見られない。



①雑賀城跡遠景
雑賀城跡のある妙見山を東側から見る。



太田城跡

二度目の和歌山城の時についでに行った太田城跡。

太田衆も小牧・長久手の戦いで徳川家康に味方したため、その後の秀吉の紀州攻めで落城した。この時、備中高松城のときと同様に周囲に堤防を築いての水攻めにより開城した。

現在は和歌山駅すぐ近くのため市街地の波に飲まれ、遺構は全く残っていない。一見、ただの平地で大軍を持って力押しすればすぐ落ちそうな感じなのだが、ここも備中高松城のように沼地だったのだろうか。



①太田城跡石碑
来迎寺にある石碑。このあたりが太田城の本丸跡だと伝えられる。



2013/06/09

和歌山城 (2013)

和歌山城三度目の城攻めは、今年の春の18切符で。過去2度の城攻めで目ぼしいところはだいたい見たので、今回は桜メイン。ただ満開だったのはその前の週末で、この日は結構葉桜となっていた。



①大手門と北堀



和歌山城 (2012)

和歌山城二度目の城攻めは2012年。一度目の2009年のときは城めぐりをしはじめたばかりの頃で、天守や門と言った目立つところぐらいしか見ていなかった。ということで2012年に再チャレンジ。

和歌山城は徳川御三家紀州藩の城というイメージが強いが、最初にこの地に城を建てたのは秀吉の弟である秀長。城の縄張りは秀吉自身であったと言われている。根来寺を焼き討ちしたときの紀州征伐で、この辺りを支配下に置いた後に築いた。(ただし秀長自身は大和郡山城を居城としていた)
その後は関が原の功により浅野幸長が入城、幸長・長晟父子により引き続き改修が行われた。家康の十男・頼宣が入城したのは大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ後。この時に徳川御三家に相応しい城に大改修された。
そのため岡山城のときと同様、建造時期により様々な石垣が残っている。さらに和歌山城では、石の積み方だけでなく石垣に用いられた石材も移り変わっている。


まずは秀長時代から。
東側を大手とする縄張りで、本丸と二の丸の工事が行われた。
この時代の石垣は野面積み。石種は岡公園や和歌浦等で採れる緑色片岩(紀州青石)で、近世城郭では和歌山城と徳島城にしか使われていない。



(1) 山吹渓の石垣
虎伏山の北側にある石垣で、かなり勾配がゆるく、これなら普通に石垣を登れそう(^^ゞ
当時の技術では急勾配にすると崩れる危険があったのか?



2013/06/08

和歌山城 (2009)

根来寺へ行ったついでに和歌山城にも行ってきた。このときの和歌山城は三度目の城攻めなので、まずは2009年に行った一度目のを投稿。

和歌山城は標高48.9mの虎伏山に建造された梯郭式平山城。虎伏山というのは、この山を海上から見ると猛虎が伏している姿に似ていることから名付けられ、そのため、この城も虎伏城と呼ばれることもある。
天守曲輪には大天守・小天守・乾櫓・二の門櫓・楠門が渡櫓によって連結された連立式天守があり、姫路城・松山城とともに日本三大連立式平山城に数えられる。

江戸時代に落雷により大小天守など本丸の主要建造物が全焼したが、御三家という家格により特別に再建された(当時は天守再建は禁止されていた)。維新後に多くの建造物が解体や移築された中で、天守は残されていたが空襲で消失。現在の建物のほとんどは戦後に再建されたもの。

このときは城攻めを始めたばかりということで、かなり見落としがある。そのため、2012年に二度目の城攻めを行ったが、それは別投稿で。



①和歌山城遠景
城の北東の交差点にある歩道橋から見た和歌山城。




2013/06/07

根来寺

春の18切符の5つ目は和歌山へ行って、根来寺。
ここはもちろん城跡では無く寺院なのだが、戦国期の最盛期には寺領72万石を数え根来衆とよばれる僧兵1万余の一大軍事集団を擁し、ちょっとした大名以上の大勢力の根拠地となっていたので、城跡扱いで。
それだけの大勢力を誇ったが、小牧・長久手の戦では徳川方に加担したために秀吉の紀州攻めを招く。雑賀衆とともに抵抗するも各地で敗退。根来寺まで攻めこまれ、大師堂・大塔など数棟を残して全焼した。江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと一部が復興された。

あれだけの大勢力の根拠地となっているのだから、寺院と言っても、もう少し防御に向いた地形になっているのかと思っていた。しかし、谷に建立されていて全く防御に向いておらず、堀などの防御用の設備も無かった。これでは秀吉軍に攻められればひとたまりも無い。


①大門
東大寺の南大門を思い浮かべる巨大な大門。(さすがに東大寺のよりは小さいだろうが)


2013/06/06

備中高松城跡

備中松山城の次は、備中高松城跡へ。
遺構はほとんど残っていないが、水攻めから本能寺の変での秀吉の中国の大返しという歴史的イベントのあった場所なので、訪れてみた。

摂津から播磨方面で苦戦していた信長陣営だが、寝返っていた有岡城・尼崎城・別所城も開城、石山本願寺とも和解(実質的に勝利)と後顧の憂いを絶ち、さらに宇喜多が織田に寝返って、備中に大攻勢をかける。
一方、攻勢にさらされる毛利陣営では山陽道を統帥する小早川隆景から、備前備中の国境に近い7城の城主に対し、激励のためにそれぞれ太刀を与えられた。これらの城主の守る城を備中境目七城と言い、備中高松城はその備中境目七城でも特に中心となる城である。

備中高松城は平城であったが、周囲が低湿地帯のため難攻不落の城であった。そこで秀吉は城の周りに堤防を築き、近くを流れる足守川の水をせきとめての水攻めを行う。ちょうど梅雨の時期で足守川が増水したため城の周りは湖と化した。これにより補給路が絶たれた備中高松城は開城。その直前に本能寺の変を知った秀吉は、ここから中国の大返しを行い、光秀を討って、天下人に上り詰める。
開城した備中高松城には宇喜多氏の家老・花房正成が入城。関ヶ原の戦いで主家とは逆に東軍に付いた花房氏は旗本に取り立てられ、後に転封したときに備中高松城は廃城となった。




①高松城址公園
遺構は何も残っていないが、天然の堀を形成していた城の周囲の低湿地帯を再現している。



2013/06/05

備中松山城

1度目の岡山城に行ったとき、その後は日本三大山城の一つで現存天守のある備中松山城に行ってきた。

備中松山城は、海抜約430mの臥牛山小松山に築かれた連郭式山城。臥牛山は小松山・大松山・天神の丸・前山の4つの峰からなる山で、最盛期にはこれらの他の峰にも城が拡張されていた。

備中松山城は、鎌倉時代の地頭・秋庭重信が大松山に砦を築いたのが起源。この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返され、城の縄張りも拡張されていった。備中松山城主・三村元親が織田信長と手を組み、毛利・宇喜多連合軍と激しく争った「備中兵乱」のときに、本城は小松山に移り、臥牛山全山が一大要塞となっていた。
江戸時代に入り池田氏が入城するが嗣子なく没したため同家は廃絶。その後に入城した水谷氏のときに、天守建造などの大修築を行い、城は現在の姿となった。

標高430mの臥牛山小松山頂上付近に建つ天守は、現存天守を持つ山城としては最も高い所にある。
天守以外も二重櫓、土塀の一部が現存。平成6年度から本丸の復元整備が行われており、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが復元されている。

※最初に訪れた時は後曲輪等見落としが多かったので、2013年に再訪。その時の写真を追加。



(1) 備中松山城遠景
備中松山城はJR伯備線の備中高梁駅の北方向。登城口まで2km弱ほどあるが、交通手段が無いに等しいので、駅から徒歩で。その道中から小松山を見る。



2013/06/04

岡山城 (2013)

この春の18切符で行った二度目の岡山城。前回は、せっかく岡山まで来たのだからと欲張り過ぎてスケジュールがきつく、本丸本段・中の段ぐらいしか見ていなかった。なので今回は、前回見れなかった本丸下の段を中心に回った。
岡山城は豊臣時代は宇喜多秀家、江戸時代に入り小早川秀秋、その後に池田忠雄が入封して拡張したため、それぞれの時代により石垣の積み方が異なっている。これらの石垣を中心に見るのも面白い。



①復元天守と天守台石垣
天守台の石垣は宇喜多秀家が築いたもの。あまり加工していない自然石を積んでいる。石垣の勾配が緩やかで、隅が鈍角である。



2013/06/03

岡山城 (2011)

三石城跡の次は岡山城へ。しかし岡山城も2度目なので、まずは1度目の方を先に投稿。

岡山城は戦国時代の梟雄・宇喜多直家が築城した石山城が始まり。その子秀家は豊臣秀吉の猶子となり、備前・美作に備中の一部を加えた57万石の大名として、岡山城を築いた。このとき、石山の東「岡山」に本丸を移し、城郭を拡張整備した。
宇喜多秀家が関ヶ原で敗退すると、小早川秀秋が岡山城に入城。その秀秋が若死すると姫路城主だった池田氏が入城、明治維新まで続いた。



①西側から見た復元天守
岡山駅から真っ直ぐ東に進むとまず見えてくる岡山城の姿。岡山城天守は幅に比べて奥行きが狭いため、西側から見るとのっぽに見える。
岡山城の北と東には旭川が流れており、それを内堀として利用している。




2013/06/02

三石城跡

この春の18切符は3回連続滋賀の城攻めだったが、4つ目は西に向かって岡山へ。まずは途中下車しての三石城跡。

三石城は岡山県の東端・兵庫県との県境近くにある、標高291mの天王山山頂に位置する中世の連郭式山城。
この城は太平記の舞台にもなり、九州へ敗走する足利尊氏が家臣の石橋和義に守備を命じ新田義貞の追撃軍を足止めした。
戦国時代になると三石城を居城としていた守護代・浦上氏と備前守護・赤松氏の対立が激化。三石城を包囲していた赤松軍を敗走させて、浦上氏は戦国大名として独立した。その後浦上氏は播磨国境より離れた天神山城を築き、三石城は廃城となった。しかしその後の支配者(織田氏・宇喜多氏)も城番を配置していたようである。

三石城は南北朝時代の城跡ということであまり期待していなかったのだが、かなり遺構が残っていて良い意味で期待を裏切ってくれた。戦国時代初期に廃城となったとあるわりには、石垣はあるし、縄張りも何か新しい感じだし、それ以降も改修されていそう。



①三石城跡遠景
三石城跡のある天王山はJR三石駅の真正面にあり、駅ホームからでもはっきり分かる。最高所に本丸跡があり、そこから右側が急斜面となっていている。斜面の途中で飛び出しているところが恐らく鶯丸で、本丸跡との間に堀切がある。





2013/06/01

安土城跡

観音寺城跡の一度目の城攻めの時は、ついでにすぐ近くの安土城跡へも行ってきた。(こっちがメインで観音寺城跡の方がついでだけどw)

安土城は言うまでもなく織田信長が築城した城で、長篠の合戦で武田勝頼を打ち破った翌年に築城を開始する。現在の安土山に建造され、大型の天守を初めて持つなど威容を誇り、天下統一の拠点となるべく当時の最先端の技術を集めた城だった。
しかしながら本能寺の変の後に炎上、織田信雄が火を付けたと言われている(他に山崎の合戦で敗れた光秀が安土城から引き上げるときに燃やしたとも、六角氏の残党が燃やしたという説もあり)。
当時は城郭が琵琶湖に接していたが、干拓が行われたために、現在は湖岸からやや離れている。

ちなみに天守も無いのに入るのにお金をとられる。また営業時間が9時からなので、それより早く来ても中に入れない(そんなことは全然知らず、危なかった)



(1) 大手道
幅の広い道(階段)が城の入り口からほぼ一直線で続く。防御より利便性を優先させた城ということが分かる。