2013/06/05

備中松山城

1度目の岡山城に行ったとき、その後は日本三大山城の一つで現存天守のある備中松山城に行ってきた。

備中松山城は、海抜約430mの臥牛山小松山に築かれた連郭式山城。臥牛山は小松山・大松山・天神の丸・前山の4つの峰からなる山で、最盛期にはこれらの他の峰にも城が拡張されていた。

備中松山城は、鎌倉時代の地頭・秋庭重信が大松山に砦を築いたのが起源。この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返され、城の縄張りも拡張されていった。備中松山城主・三村元親が織田信長と手を組み、毛利・宇喜多連合軍と激しく争った「備中兵乱」のときに、本城は小松山に移り、臥牛山全山が一大要塞となっていた。
江戸時代に入り池田氏が入城するが嗣子なく没したため同家は廃絶。その後に入城した水谷氏のときに、天守建造などの大修築を行い、城は現在の姿となった。

標高430mの臥牛山小松山頂上付近に建つ天守は、現存天守を持つ山城としては最も高い所にある。
天守以外も二重櫓、土塀の一部が現存。平成6年度から本丸の復元整備が行われており、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが復元されている。

※最初に訪れた時は後曲輪等見落としが多かったので、2013年に再訪。その時の写真を追加。



(1) 備中松山城遠景
備中松山城はJR伯備線の備中高梁駅の北方向。登城口まで2km弱ほどあるが、交通手段が無いに等しいので、駅から徒歩で。その道中から小松山を見る。





(2) 登城口
駅から北に向かうと見える山に向かって歩けばいいので、あまり迷うことは無いはずなのだが、ときどき行き止まりの道があって、二度とも一回では行けなかった。


(3) 登城路
登城路は整備されていて、登城口から備中松山城までは迷うこと無く進む。



(4) 大石良雄腰掛岩
現在の城を築いた水谷氏もお家断絶したため、赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石内蔵助良雄が城番となった。城番として滞在した1年余りの間、城地を調査し、登城の際にこの岩に腰をかけて休息したと伝えられる。
備中高梁駅から歩いてきて疲れたので、私もこの岩に腰をかけてちょっと休息した(^^ゞ


(5) 中太鼓の丸跡
天守から5〜600m離れたところにあり、山麓の御根小屋と小松山とを太鼓で連絡する中継所の一つ。


(6) 中太鼓の丸跡からの眺望
中太鼓の丸跡から南側の高梁市街地を見る。ここで標高355m。


(7) 大手御門跡
中太鼓の丸跡から登城路を進むと見事な石垣が現れ、大手門跡につく。


(8) 大手御門跡石垣から大手道を見る
大手門前は一本道で、大人数で攻めてきても少人数で守ることが出来る。

(9) 上番所跡
大手門から入って右手に上番所があった。



(10) 城内大手道から見た石垣の重なり
大手門から入って左に進んで後を振り返る。
備中松山城は現存天守だけでなく、石垣も素晴らしい。特に石垣が何段も重なってみえる景観は圧巻。
しかしながら、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっており、更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じていて、将来崩落する危険を孕んでいるらしい。


(11) 二の平櫓跡
大手門から入り左に進んだ突き当りには二の平櫓があった。ここから大手道が良く見え(今は木が少し邪魔だが)、それの監視する櫓だと思われる。

(12) 土塀(重要文化財)
二の平櫓跡で右に折り返した先の左手は土塀が残っている。これは復元されたものではなく、現存の土塀。

(13) 三の丸跡
少し先に進んだ右手には三の丸跡が広がる。

(14) 三の平櫓跡
三の丸の向かい側には三の平櫓があった。

(15) 路地門跡
三の平櫓の北西側の隣には「路地門跡」との石碑があった。ただ、この先は急峻な斜面で、この門の先に道があったとは思えないのだが…



(16) 厩曲輪南面の高石垣
三の丸の北側には厩曲輪があり、その石垣も見事な石垣だった。

(17) 黒門跡
三の丸跡と三の平櫓跡とに挟まれた大手道の先には黒門があった。


(18) 四の平櫓跡
黒門跡の西側にある櫓跡。黒門の防御のための櫓だと思われる。

(19) 厩曲輪跡
黒門から中に入って右手に厩曲輪がある。

(20) 御膳棚跡
厩曲輪跡の向かいにある御膳棚跡。奥に見える建物はトイレ。

(21) 二の丸南面の石垣
御膳棚跡から二之丸石垣を見る。左側に明らかに大きさが違う石垣がある。補強のために後から積んだ石垣?

(22) 二の櫓門跡
黒門跡から入って先に進むと、二の櫓門跡がある。ここから二の丸に入る。

(23) 二の櫓門跡石垣の上からの眺望
二の櫓門跡石垣から南側を見る。向こうに見えるのが、高梁市街。

(24) 二の丸跡





(25) 二の丸から見た本丸
二の丸跡の北側にある本丸。
奥に見える天守は現存だが、それ以外の建物や土塀は復元されたもの。


(26) 雪隠跡
二の丸跡の南西隅には雪隠跡がある。

(27) 五の平櫓(復元)
本丸の南東隅にある五の平櫓。平成になってから復元された。


(28) 本丸南御門(復元)
五の平櫓前の階段を上がった先に本丸南御門があり、ここから本丸に入る。
この本丸南御門も平成になってから復元された。

(29) 六の平櫓(復元)
本丸南御門の西側にある六の平櫓。
この櫓も平成になってから復元された。

(30) 七の平櫓跡
 六の平櫓のさらに西側には七の平櫓があった。この櫓は復元されていない。

(31) 本丸跡
本丸南御門から本丸に入って正面奥に天守が見える。


(32) 八の平櫓跡
本丸奥の左側の階段を上がった先には八の平櫓があった。

(33) 現存天守(重要文化財)
標高430mは、現存天守のある山城としては日本一高い。
今は天守の西側にある附櫓から天守に入るが、当時は八の平櫓から渡櫓があった。


(34) 附櫓
西側の附櫓から天守に入る


(35) 天守1階


(36) 装束の間(外側)
天守1F北側には一段高い部屋がある


(37) 装束の間(内側)
1段高い「装束の間」は城主の御座所だった


(38) 天守2階への階段
御多分にもれず勾配がきつい





(39) 天守2階


(40) 天守からの眺望


(41) 本丸東御門(復元)
本丸の北東にある門で、この門も平成になってから復元された。




(42) 本丸東御門(復元)
東御門の外側。この門から降りると搦め手門に行く。ただし、現在はこの門は閉じられていて通り抜け出来ない。

(43) 腕木御門(復元)
東御門の左側にある階段を上がって、天守の裏側に行くと腕木御門がある。
この門も平成になってから復元された。


(44) 腕木御門(復元)
腕木御門の外側。この門から降りると後ろ曲輪に行く。ただし、現在はこの門は閉じられていて通り抜け出来ない。




(45) 二重櫓(重要文化財)
天守の裏側にある二重櫓。城内で唯一の多層櫓で小天守に相当。


(46) 搦手門跡
本丸東御門から降りた先には搦手門があった。ただ、この門の先は斜面の勾配がきつくて、とても通路があったように見えなかった。

(47) 後曲輪跡
搦手門跡からさらに奥に進んだ先にある曲輪跡。

(48) 九の平櫓跡


(49) 十の平櫓跡
搦手曲輪と後曲輪との間の曲輪にある


(50) 水の手門跡
後曲輪と十の平櫓跡との間にある


(51) 水の手門跡から裏手に抜ける
ここから、天神の丸跡や大松山城跡へ行く。


(52) 堀切と土橋
水の手門跡から外に出て進んだ先に堀切があり、そこに橋がかかっていた。案内板には「土橋」とあるが、どう見ても土橋じゃ無いだろww
ここからまず天神の丸跡へ向かう。







(53) 備中松山城復古図


(54) 駐車場から見た下太鼓の丸跡
備中松山城の登城路の中間ぐらいに駐車場があり、車でくる場合はここまで車で来れる。その駐車場の南側にある小山が前山で、ここも城塞化されており江戸期には下太鼓丸があった。
備中松山城からの下山時に、その下太鼓丸跡へも寄ってみた。


(55) 御根小屋 高石垣
山麓には江戸期に藩主の居館と松山藩の政庁があり、御根小屋と呼ばれていた。


(56) 御根小屋 下中門跡
御根小屋跡も、ご他聞にもれず学校が建っていた。

(57) 御根小屋への大手道


(58) 御根小屋配置図




[備中松山城跡マップ]
 ※さらに拡大したいときは「地形」から「地図」に変更する

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