2014/03/30

大通寺山陣地跡

大通寺山陣地は武田軍が長篠城を包囲した時に築いたいくつかの陣地の一つ。
武田方の重心・馬場信房、武田信豊、小山田信行らがここに陣を構えた。



①大通寺山陣地跡遠景
長篠城跡から大通寺山陣地跡への道中から見た遠景



2014/03/21

長篠城跡

この冬の18切符のラストは愛知県新城市長篠にある長篠城跡へ。

長篠城は戦国時代初期に、今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城した平城。
戦国時代後期には武田氏と徳川氏との間で争われ、信玄亡き後に徳川が攻め落とした。そして奥平信昌が城主となり、武田軍の再侵攻に備えて家康により城が拡張された。現在残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている。
この奥平信昌が守る約500の手勢に対し、武田勝頼は1万5000の大勢で包囲するも攻め落とせず、援軍に来た織田・徳川連合軍に対して長篠の合戦で大敗し、武田氏は滅亡への道を歩むこととなる。
長篠城は、このときの攻防戦で城が大きく損壊したこともあって廃城となった。

現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。



①牛渕橋から見る長篠城跡
長篠城跡の南にある牛渕橋から城跡を臨む。左側の寒狭川と右側の宇連川との合流点にあり、川との間は断崖絶壁となる要害の地である。
JR飯田線の鳥居駅と長篠城駅との間にあり長篠城駅の方が近いが、宇連川を渡る橋が長篠城駅より向こう側にあるため、手前の鳥居駅で降りて牛渕橋を通って長篠城跡へ向かう。




2014/03/16

三原城跡

古高山城跡の次は、三原城跡へ。
三原城は広島県三原市にある梯郭式平城。、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。

その古高山城から新高山城へ本城を移した小早川隆景は、小早川水軍をより効率よく運用するために三原湾に臨むこの地に三原城を築き、ここを本城とした。小早川隆景は豊臣政権になってから筑前・名島城に本城を移すが、隠居後にまた三原城に戻り、さらに三原城を整備した。
関ヶ原の戦いの後には福島正則が安芸・備後に入封し、新たに三原城の城主となった養子・正之によりさらに改修された。

維新後に廃城となり、城跡は駅用地に使用され、また石垣も大部分が撤去された。さらに山陽新幹線開業で、同新幹線と山陽本線の三原駅(高架改良後)が本丸および天主台跡を貫き、城地は寸断され現在の姿になった。




①三原駅への出入口のため繰り抜かれた石垣
一応、石垣を保存すべく石垣の縁の上を跨いで三原駅が建設されたとのことだが、駅への出入口は石垣をぶち抜いている。



2014/03/08

古高山城跡

古高山城は現在の広島県三原市本郷町に建てられた山城。谷を挟んで東西に延びる二つの尾根上に築かれており、現在確認されている城域は約41㎡にも及び全国でも五指に数えられる規模を誇る。

古高山城は、平家討伐に功績により吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた土肥実平の孫・小早川茂平により築かれたと言われている。代々小早川氏の居城で、15~16世紀頃に現在の縄張りとなった。
その後、毛利元就の三男で小早川氏を継いだ小早川隆景は沼田川を挟んだすぐ隣の山に新高山城を築き、古高山城は廃城となった。



(1) 南側からの遠景
古高山城跡はJR山陽本線本郷駅の北1kmほどの場所にある。駅から北に向かって歩き、その道中から城跡を見る。


2014/03/05

下太鼓丸跡

備中松山城からの下山時、臥牛山の最後の峰・前山に築かれた下太鼓の丸にも寄ってみた。

下太鼓の丸は、標高320mの前山山頂に築かれた山城で、天守と山裾の御根小屋との中間地点に位置する。城の防備上重要な拠点であり、また、太鼓の音を中継する通信施設の一つとも言われている。



①登城口
駐車場の出入口付近に下太鼓丸跡への登城口がある。



2014/03/01

大松山城跡

天神の丸跡の次は大松山城跡へ。

大松山城は、標高470mの大松山山頂に築かれた山城。鎌倉時代に地頭であった秋庭氏が築いたと伝えられる。臥牛山に最初に築かれた城で、臥牛山一帯の城塞の中で最初はこちらが本城だったが、のちに小松山に築かれた備中松山城が本城となった。



①大松山城跡
右側に見えるのが本丸跡、正面から左に見えるのが二の丸跡の土塁。