2014/10/05

引田城跡

勝瑞城跡の次は、香川県の東端近くにある引田城跡へ。

香川県にある古代山城・屋島城と同時期の築城と歴史はかなり古く、その後、内海の要塞として改修が加え続けられる。
戦国時代後期、長宗我部元親による讃岐侵攻時には、三好氏の援軍要請に応えて秀吉が仙石秀久を引田城に入城させるが、仙石秀久は長宗我部軍に敗退。元親が秀吉に降伏後に、再度仙石秀久が入城するが、九州征伐での失態により秀久は改易。その後には讃岐一国を得た生駒親正が入城するが、引田城が讃岐の東に偏っているので聖通寺城に移り、引田城は廃城となった。

現在の引田城跡は、この仙石・生駒時代に改修されたと思われる石垣が残っている。




(1)引田城跡遠景
JR引田駅から、北側にある引田城跡へ向かう途中、引田港ごしに引田城跡を見る。



2014/09/28

勝瑞城跡

この夏の18切符での城攻めは讃岐・阿波へ。
今年の8月は雨ばかりで広島遠征以降はなかなか行けなくて、ほぼ1ヶ月ぶりの城攻め。

まずは旧吉野川の南岸の自然堤防上に築かれた平城である勝瑞城跡。東側には今切川、南側には湿地帯に接している要害の地であった。築上年代は定かでは無いが、承久の乱の後に阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたのが始まりという説もある。
室町時代に阿波守護・細川氏によって守護所が置かれ、戦国時代には細川氏の実権を握った三好氏の本拠となった。三好氏は一時畿内も支配したが、信長の台頭により畿内から追い出され、また四国も土佐より台頭してきた長宗我部元親の攻撃を受け敗走。そのまま廃城となった。

現在は本丸跡とその周りの堀および土塁が残っているが、その堀や土塁は、侵攻してくる長宗我部軍に対抗するために守りを固めたときのものと考えられている。




①石碑
勝瑞城跡はJR勝瑞駅の北西600mほどのところにあり、車道から城跡への入口付近にひっそりと石碑がある。



2014/09/21

岩国城

遠征最終日は標高216mの横山山頂に築かれた岩国城。

関ヶ原の戦いで西軍ながら傍観して東軍勝利に貢献した吉川広家が米子から岩国に移って築城した。
しかし完成からわずか7年後、一国一城令により廃城。広家は周防国内には岩国城しかないと主張したが、毛利本家の意向により山上部分は取り壊された。
広家は関ヶ原で毛利本家を存続させるために徳川に恩を売ったつもりが、毛利本家から見ると広家の裏切りにより西軍が敗北し、そのため3ヶ国に減らされてしまった恨みが残ったためと言われる。



(1) 大手橋(錦帯橋)
日本三名橋として観光客で賑わう錦帯橋は、岩国城と城下町をつなぐ橋として錦川に架けられた。しかし錦川の洪水の度に流失。
3代領主吉川広嘉のときに洪水に耐えられる橋をと5連のアーチ橋の錦帯橋が造られた。


2014/09/13

亀居城跡

吉田郡山城跡の次は、広島県大竹市にある亀居城跡へ。
亀居城は、広島城の支城として福島正則が築城した平山城。

関ヶ原の戦いの後に広島城へ入城した福島正則は、毛利氏の抑えのため、安芸国西部の山陽道を押さえる要地に築城した。5年もの歳月をかけて巨大な堅城を築いたが、豊臣氏と徳川氏との間に緊張が高まると豊臣恩顧大名である福島正則も徳川氏に警戒され、そのため完成よりわずか3年で廃城になった。

現在は大竹市指定史跡に指定され、亀居公園として整備されている。



①亀居城跡遠景
JR玖波駅で下車し、山陽本線に沿って下り方向に歩くと、亀居城跡のある丘陵が見えてくる。



2014/08/31

郡山旧本城

吉田郡山城のある郡山の南側尾根筋にある旧本城跡。
建武3年(1336年)に毛利時親が築城し、毛利元就が郡山全山を城郭化して山頂に移るまで、毛利氏11代・約190年間本城としていた。本丸・二の丸・三の丸を直線的に階段状に並べた、単純な縄張りである。

旧本城への道は、尾崎丸跡手前にあり、そこからまたかなり降ろされる。せっかくかなり登ったのに、この分また登らないとと思うと気が重くなる。




①堀切
旧本城の背後(山頂側)には3本の堀切がある。写真は一番良好な状態で残っている(恐らく)真ん中の堀切。残り2本は埋まってしまってかなり浅くなっており、そのうち1本は堀切かどうかも良く分からない。



2014/08/23

吉田郡山城跡

遠征2日目は毛利氏の本城であった吉田郡山城跡へ。
吉田郡山城は、可愛川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する標高約400m(比高約200m)の郡山に築かれた山城で、城域は郡山全域に及ぶ。

南北朝時代に吉田荘の地頭職として下向した毛利時親は、郡山の南側の尾根上に城を築いて居城とした。
戦国時代に入り吉田郡山城の入城した毛利元就は、城を大規模に改修。本丸を山頂に移し、その周囲に大小270もの曲輪を階段状に連ねて、郡山全体を要塞化した。毛利元就が大内氏の被官であったころ、2から3万と言われる尼子軍に攻めこまれたが、吉田郡山城で守りぬき、援軍に来た大内氏とともに尼子軍を撃退した。(大規模改修したのはこの戦いの後という説もある)
元就・隆元・輝元時代にかけて改修を続けてきた吉田郡山城だが、山城としての限界を感じた輝元は平地の広島城を築いて居城を移した。関ヶ原後に安芸に入封した福島正則の時代に吉田郡山城は廃城となった。
現在、城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。

吉田郡山城へは広島バスセンターからのバスの方が本数が多いが、せっかく18切符があるので芸備線で吉田口駅まで行き、そこから備北交通バスに乗り大浜停留所で下車。ただし、このバスは日曜日は運休しているので注意。




(1) 吉田郡山城跡遠景
南側にある歩道橋から吉田郡山城跡を見る。左奥が吉田郡山城跡の主郭で、右手前の低い山が旧本城跡。



2014/08/17

宮尾城跡

広島城の次は宮島にある宮尾城跡。
実は初日の城攻め予定は広島城だけで、広島に来たついでに厳島神社に寄ってみたら、そのすぐ近くに城跡があった。

宮尾城は厳島北西にある要害山と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた連郭式平山城。要害山という名前の割には現在は低い丘に過ぎないが、当時は城北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面し、水軍の運用も可能な城であったと言う。
大内氏の被官に過ぎなかった毛利元就は、大内義隆が重臣・陶晴賢に討ちとられた際に独立。しかし、当然ながら新たに大内氏の実権を握った陶晴賢はこれを許さず大軍で攻めてくる。普通に戦えば勝てない元就は、厳島に宮尾城を築き陶方の大軍をおびき寄せることに成功し、嵐の日に奇襲して陶晴賢を討ち取った。この厳島合戦により、独立するだけでなく中国地方の覇権を握る礎を築いた。

宮尾城という名に聞き覚えはなくても、有名な厳島合戦で囮となった城なので、気付かず通り過ぎていたら後悔するところだった。


①宮尾城跡北東面
フェリーターミナルから厳島神社へ向かう道中の観光客向け店舗のすぐ背後にある宮尾城跡。要害山と呼ぶにはあまりに低い山ですぐ落城しそうだが、当時はこちらは海だった。



2014/08/09

広島城

この夏の18切符2つ目は広島方面に城攻め遠征へ。
初日一つ目は毛利輝元が築いた広島城で、名古屋城・岡山城と共に日本三大平城の一つに数えられている。また「鯉城(りじょう)」とも呼ばれている。

毛利輝元は中国の覇者・毛利元就の孫で、それまでの本城は吉田郡山城であった。しかし山城では交通が不便なために廃城とし、領国の中心であり水陸双方の交通の要所である太田川河口に新たに本城を築城した。時代は豊臣政権のときで、輝元が上洛したときに感銘を受けた聚楽第を参考にしたと言われ、関ヶ原の前年に完成した。
しかし輝元は関ヶ原で西軍の総大将に担がれたため、敗戦後は防長2ヶ国に減らされて萩へ移り、替わって東軍で活躍した福島正則が入城した。正則は広島城の外郭を整備し、内堀・中堀・外堀を持つ1km四方に及ぶ広大な城となった。その正則はささいなことを咎められ所領を没収され、次に紀伊・和歌山城の城主だった浅野長晟が広島城に入城し、以後、維新まで浅野氏の支配が続いた。
維新後は広島鎮台となり天守などの建物の取り壊しは免れ、さらに第二次世界大戦でも終戦間際まで戦災をも免れていたが、原爆の爆風で倒壊した。

現在は広島城址公園として整備され、天守や二の丸表御門なども復元されている。



①北東二重櫓跡
広島城はJR広島駅の西側1.5km程度の、市電もあるが徒歩圏内。南側が大手だが、広島駅から歩いていくと本丸搦手の東側に出る。
広島城本丸は南北にやや長い方形の曲輪で四隅を天守および櫓で守り、それらを多門櫓や土塀でつないでいた。




2014/08/02

鬼ノ城跡

また18切符の季節になったので、それを利用して城攻め再開。
この夏の18切符一発目は、吉備高原南縁の標高約400mの鬼城山に築かれた鬼ノ城跡。
駅から遠くバスも無い僻地なのでなかなか行けなかったが、今回はレンタサイクルを利用して移動。ただ最寄り駅の服部駅には何も無いので、二つ先の総社駅のレンタサイクル店を利用した。

鬼ノ城は鬼城山の8~9合目あたりの急斜面にさらに高さ約6mの城壁が築かれた神籠石系山城。
7世紀の白村江の惨敗により本土防衛のために築かれたという説が有力であるが、日本書紀等の文献には記載がなく謎に包まれている。



1. 鬼ノ城跡遠景
レンタサイクルでの道中から鬼ノ城跡を見る。この辺りまではほぼ平地なのでスイスイ来れたが、もう少し先からほぼ上り坂オンリーとなり、自転車ではかなりきつかった。




2014/06/28

鹿児島城跡

2年前の九州出張ついでの城攻めのラストは鹿児島城跡。

鹿児島城は標高約107mの中世の上山城跡(城山)の麓に築かれた平城。屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから鶴丸城とも呼ばれていた。
関が原の戦いでは敗北した西軍に属していながら本領を安堵された島津家久が、戦後に築いた。公称77万石の大藩の居城にも関わらず、天守はもちろん二重櫓も無く、本丸と二の丸が並んだ単純な縄張りだった。



①御楼門跡
大手門にあたる御楼門跡。櫓門となっていて、この櫓門が天守も多重櫓も無い鹿児島城の象徴であった。


2014/06/08

人吉城跡

九州出張にかこつけて熊本城に行ったついでに、次は人吉城跡に。

人吉城は、球磨川の南側に位置する梯郭式平山城で、鎌倉時代初期に肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼が築いた。戦国時代末期・19代当主の相良義陽から江戸時代初期・22代頼寛にかけて大改修を行い、近代城郭となった。以後も明治維新に至るまで相良氏の居城であり、鎌倉時代から明治維新まで同じ城を居城としたのは恐らく相良氏のみであろう。
維新後の廃城令で廃城となった後、西南戦争のときに西郷隆盛軍の拠点となったため建造物は全焼した。

現在は国の史跡に指定され、人吉城公園として整備されており、平成になってから角櫓・大手門脇多聞櫓・続塀が復元された。



①駒川と角櫓(復元)
球磨川と駒川との合流地点にあり、天然の堀となっている。



2014/06/01

熊本城

18切符での在庫が無くなったので、2年前に九州出張時に前泊して行った熊本城。
熊本城は茶臼山に築かれた梯郭式平山城で、名古屋城・姫路城(または大坂城)とともに日本三名城の一つに挙げられている。

熊本城と言えば加藤清正が築いたことで有名だが、それ以前にも茶臼山一帯には中世城が存在した。
文明年間(1469-1487)に菊池一族の出田秀信が茶臼山東端に千葉城を築いたのが始まり。その後、鹿子木寂心が茶臼山西南麓に隈本城を築いた。
戦国時代になると城主が次々と入れ替わるが、秀吉時代に肥後北半国の領主となった加藤清正が入城し、茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。その最中、関ヶ原の功で肥後一国の領主となったため、計画変更されてさらに大規模な城となった。1607年の完成を機に、隈本城から熊本城に改名された。加藤氏は清正の子・忠広のときに改易。その後に細川忠利が領主となり、明治維新まで続いた。
西南戦争で4,000人が籠城した熊本城は、西郷隆盛率いる14,000人の反乱軍により攻められたが、1人として城内への侵入を許さず、熊本城の難攻不落ぶりが証明された。しかしこのときに一部の建物を残して主要な建物を焼失してしまった。

昭和になってから築城350年を期に大小天守と平櫓、塀などが復元、平成になってからは築城400年を期に本丸御殿、いくつかの櫓、塀などが復元、現在も復元工事中である。





(1) 長塀(重文)
城の南側には、東の平御櫓から西の馬具櫓まで約242mの塀が続いており、現存する城郭の塀の中では最長を誇る。その外側にあるのは天然の堀である坪井川。



2014/05/25

白地城跡

春の18切符のラストは白地城跡へ。
白地城は阿波国三好郡白地(徳島県三好市池田町白地)にあった山城。

白地城は四国の中央部の山間地に立地し、阿波・讃岐・伊予・土佐いずれの国にも通じる道の交差点にあたる場所にあり、そのため四国を制覇する長宗我部元親の拠点となった。
しかし現在は城跡に温泉宿が建設され、遺構はほとんど破壊されて残っていない。その温泉宿が建設された昭和後期までは曲輪や堀など遺構が多く残っていたらしい。

戦前にあるいは戦争で失われたのならまだあきらめもつくが、昭和後期(恐らく自分が生まれた後)まで遺構が残っていたのを破壊されたと聞くと、すごく腹が立つ。長宗我部元親の四国制覇の拠点で、歴史的にも重要な城なのに。


①白地城跡遠景
白地城跡の最寄り駅は三縄駅だが、一個手前の阿波池田止まりの列車に乗って、これ以遠の列車の本数がかなり少ないので、そこから歩いて行った。その途中から見た白地城跡の遠景。右側の山の中腹に白い建物が見えるが、これが白地城跡に建てられた温泉宿。




2014/05/17

七尾城跡

春の18切符での石川県の城攻めの二日目。小丸山城跡の次は、この城攻めの本命・七尾城跡へ。
七尾城は、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上の通称「城山」にあり、その尾根から枝分かれする尾根にも無数の砦を配置した大規模な連郭式山城である。七つの尾根に築かれた城ということから七尾城と呼ばれた。

七尾城は能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428-1429年)頃にこの地に築いたと思われる。当初は砦程度の規模であったが、戦乱の時代になり増築・拡張され、能登国に侵攻した上杉謙信にによる攻撃にも、一年にわたって持ちこたえるほど強固な城となった。このときに外からの攻撃には耐えぬいたが、内部の対立による内応のため開城した。七尾城はその後、織田の支配下に入り前田利家が城主となるが、小丸山城へ本城を移して廃城となった。

石垣を始め、当時の遺構がかなり残っており、国の史跡に指定されている。また日本五大山城のひとつに数えられている。



(1) 七尾城跡遠景
七尾城へは七尾駅前から市内循環バスにて。「城史資料館前」バス停付近から、七尾城跡を見る。


2014/05/11

小丸山城跡

春の18切符での石川県の城攻め。
二日目は能登まで足を伸ばして、前田利家が築いた小丸山城跡。

織田信長より能登一国を与えられた前田利家は七尾城に入城するが、山城で利便性に難があるため、七尾港に近い小丸山に平山城を築いた。
その後に秀吉が柴田勝家を滅ぼすと、加賀半国を加増された利家は金沢城(当時は尾山城)に本拠を移した。小丸山城には城代が置かれるが、江戸時代に入ると一国一城令のため廃城となった。



①小牧山城跡遠景
JR七尾駅から七尾線に沿って西に向かうと、すぐに小牧山城跡が見えてくる。


2014/05/04

鳥越城跡

この春の18切符3つ目と4つ目は、一泊二日で石川県の城攻めへ。まずは加賀の鳥越城跡。
鳥越城は、石川県白山市にある標高312mの山に築かれた連郭式山城。

織田信長による加賀一向一揆討伐の最中、白山麓山内衆の一向一揆の拠点として築城された。1580年に織田方の柴田勝家軍によって落城し、城主の鈴木出羽守を始めとする鈴木一族は滅ぼされた。しかし、その後も白山麓一向一揆は続き、攻防戦が展開されたが、1582年勝家の甥である佐久間盛政によって鎮圧された。

現在は国の史跡に指定されており、櫓門・門及び一部の石垣が復元されている。




(1) 鳥越城遠景
鳥越城跡へは北陸鉄道の終点・鶴来駅からバスに乗って上野バス停で下車。そこから南に向かって歩いて行くと、正面に城跡のある山が見えてくる。


2014/04/27

小牧山城跡

岩村城跡からの帰りに小牧山城跡に寄ってみた。
小牧山城は、愛知県小牧市にある標高86mの小山に建てられた山城で、織田信長が美濃攻めのために築城、清州城から居城を移した。
美濃攻略後はさらに岐阜城に居城を移したため廃城となったが、小牧・長久手の戦のときに家康がここを改修して陣城を築いた。

現在は公園として整備されすぎていて、天守が無いのに模擬天守を築いたり、登城路なのか後世になって作られた自然歩道なのか、曲輪跡なのか広場なのか、よく分からない。



①小牧山城跡遠景
名鉄小牧駅から西に向かうと、前方に小牧山城跡が見えてくる。


2014/04/20

岩村城跡

この春の18切符2つ目は岩村城跡へ。
岩村城は、岐阜県恵那市岩村町にある梯郭式山城で、付近は霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれる。また標高721mは日本で一番高い山城で、備中松山城・高取城とともに日本三大山城と呼ばれている。

この地は鎌倉時代より岩村遠山氏が治めていおり、当時は平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであった。それが戦国時代末期に本格的な山城となり、遠山氏最後の城主・景任は織田方について武田方の秋山信友の攻撃を守りぬいた。遠山景任が没すると、信長の五男を養子とし、信長の叔母にあたる景任夫人が女城主として差配を振るった。しかし再度、秋山信友が攻めてくると、景任夫人は信友の妻となることを条件に開城、養子の信長の五男は甲府に送られた。これに激怒した信長は、長篠の戦いで武田勢が弱体化した後に岩村城を奪還し、信友夫妻らを逆さ磔で処刑した。
その後に城主となった河尻秀隆が改修し、さらに本能寺の変後にこの地を治めた森氏の家老・各務元正により、現在の城郭が完成した。江戸時代も岩村藩の居城として生き残り、維新後の廃城令で城は解体され石垣のみとなった。



(1) 岩村城跡遠景
城跡の北側にある城下町から岩村城跡を臨む。この辺りは重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、城下町の雰囲気がよく残っている。


2014/04/17

利神城跡

平福陣屋の北東に位置する利神城は、標高373mの利神山山上にある連郭式の山城。
平福は朝霧の名所であり、江戸時代初期にあった天守が霧の上に浮かんだ偉容から雲突城とも呼ばれた。

利神城は南北朝時代に赤松氏一族の別所敦範によって築城された。
戦国時代に入ると、織田軍に属していた尼子勝久家臣・山中鹿之介により攻め落とされるが、毛利氏により上月城が落とされれると、毛利方の宇喜多直家の支配となる。
関ヶ原後の播磨には池田輝政が入封し、利神城は甥の由之に与えられた。由之は三重の天守を構え、曲輪を全て石垣で築くなど、城を大改修した。その後、輝政の6男・輝興が城主となり平福藩が立藩するが、輝興が赤穂藩を継ぐと平福藩は廃藩、利神城は廃城となった。

現在も石垣等は残っているが、史跡の指定を受けておらず、かなりの部分で崩落している。そのため、危険ということで入山禁止らしい。



①霧の利神城跡遠景
この日、平福陣屋跡へ立ち寄るために智頭急行・平福駅で下車したときには朝霧が発生しており、雲突城と言われるとおり、霧の上に山城跡が浮かんでいた。




2014/04/12

平福陣屋跡

関西から若桜鬼ヶ城跡へ行くと若桜鉄道の接続が非常に悪く、郡家駅で数時間待ちが発生するので、途中下車して平福陣屋跡へ寄り道。

因幡街道の宿場町として栄えた平福は、江戸時代初期までは北東に位置する利神山にあった利神城から支配していたが、利神城の廃城後は平地に平福陣屋が建てられた。
現在は表門だけ残っていて、陣屋跡は民家と駐車場になっている。


①表門
現在は表門のみ現存している。



2014/04/03

若桜鬼ヶ城跡

この春の18切符の一発目は因幡の若桜鬼ヶ城へ。
標高452メートル(比高252メートル)の鶴尾山山頂部から尾根部分に曲輪群を設けた連郭式山城で、鳥取城、鹿野城とともに因幡三名城に数えられる。

若桜鬼ヶ城の正確な築条時期は不明だが、鎌倉時代の初期に地頭としてこの地に来た矢部暉種が築城したと考えられている。当初は東側を流れる八東川の西岸の小高い丘に居館を構えていた程度であったが、南北朝騒乱期に鶴尾山の尾根上に詰城として拡張した。
戦国時代は山名氏に属すが、尼子氏再興を目指す山中鹿之介により落城し、山名氏は滅亡した。その後、毛利氏が奪ったあとまた秀吉が奪い、鳥取城攻めの拠点となった。現在の石垣等の山頂部の遺構は、この時に城主となった木下重堅時代のものと考えられる。関ヶ原の戦い後は、山崎家盛を経て、鳥取城主・池田光政の領土となり、一国一城令により廃城となった。



(1) 若桜鬼ヶ城跡遠景
若桜駅近くから見た若桜鬼ヶ城跡



2014/03/30

大通寺山陣地跡

大通寺山陣地は武田軍が長篠城を包囲した時に築いたいくつかの陣地の一つ。
武田方の重心・馬場信房、武田信豊、小山田信行らがここに陣を構えた。



①大通寺山陣地跡遠景
長篠城跡から大通寺山陣地跡への道中から見た遠景



2014/03/21

長篠城跡

この冬の18切符のラストは愛知県新城市長篠にある長篠城跡へ。

長篠城は戦国時代初期に、今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城した平城。
戦国時代後期には武田氏と徳川氏との間で争われ、信玄亡き後に徳川が攻め落とした。そして奥平信昌が城主となり、武田軍の再侵攻に備えて家康により城が拡張された。現在残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている。
この奥平信昌が守る約500の手勢に対し、武田勝頼は1万5000の大勢で包囲するも攻め落とせず、援軍に来た織田・徳川連合軍に対して長篠の合戦で大敗し、武田氏は滅亡への道を歩むこととなる。
長篠城は、このときの攻防戦で城が大きく損壊したこともあって廃城となった。

現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。



①牛渕橋から見る長篠城跡
長篠城跡の南にある牛渕橋から城跡を臨む。左側の寒狭川と右側の宇連川との合流点にあり、川との間は断崖絶壁となる要害の地である。
JR飯田線の鳥居駅と長篠城駅との間にあり長篠城駅の方が近いが、宇連川を渡る橋が長篠城駅より向こう側にあるため、手前の鳥居駅で降りて牛渕橋を通って長篠城跡へ向かう。




2014/03/16

三原城跡

古高山城跡の次は、三原城跡へ。
三原城は広島県三原市にある梯郭式平城。、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。

その古高山城から新高山城へ本城を移した小早川隆景は、小早川水軍をより効率よく運用するために三原湾に臨むこの地に三原城を築き、ここを本城とした。小早川隆景は豊臣政権になってから筑前・名島城に本城を移すが、隠居後にまた三原城に戻り、さらに三原城を整備した。
関ヶ原の戦いの後には福島正則が安芸・備後に入封し、新たに三原城の城主となった養子・正之によりさらに改修された。

維新後に廃城となり、城跡は駅用地に使用され、また石垣も大部分が撤去された。さらに山陽新幹線開業で、同新幹線と山陽本線の三原駅(高架改良後)が本丸および天主台跡を貫き、城地は寸断され現在の姿になった。




①三原駅への出入口のため繰り抜かれた石垣
一応、石垣を保存すべく石垣の縁の上を跨いで三原駅が建設されたとのことだが、駅への出入口は石垣をぶち抜いている。



2014/03/08

古高山城跡

古高山城は現在の広島県三原市本郷町に建てられた山城。谷を挟んで東西に延びる二つの尾根上に築かれており、現在確認されている城域は約41㎡にも及び全国でも五指に数えられる規模を誇る。

古高山城は、平家討伐に功績により吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた土肥実平の孫・小早川茂平により築かれたと言われている。代々小早川氏の居城で、15~16世紀頃に現在の縄張りとなった。
その後、毛利元就の三男で小早川氏を継いだ小早川隆景は沼田川を挟んだすぐ隣の山に新高山城を築き、古高山城は廃城となった。



(1) 南側からの遠景
古高山城跡はJR山陽本線本郷駅の北1kmほどの場所にある。駅から北に向かって歩き、その道中から城跡を見る。


2014/03/05

下太鼓丸跡

備中松山城からの下山時、臥牛山の最後の峰・前山に築かれた下太鼓の丸にも寄ってみた。

下太鼓の丸は、標高320mの前山山頂に築かれた山城で、天守と山裾の御根小屋との中間地点に位置する。城の防備上重要な拠点であり、また、太鼓の音を中継する通信施設の一つとも言われている。



①登城口
駐車場の出入口付近に下太鼓丸跡への登城口がある。



2014/03/01

大松山城跡

天神の丸跡の次は大松山城跡へ。

大松山城は、標高470mの大松山山頂に築かれた山城。鎌倉時代に地頭であった秋庭氏が築いたと伝えられる。臥牛山に最初に築かれた城で、臥牛山一帯の城塞の中で最初はこちらが本城だったが、のちに小松山に築かれた備中松山城が本城となった。



①大松山城跡
右側に見えるのが本丸跡、正面から左に見えるのが二の丸跡の土塁。




2014/02/26

天神の丸跡

この冬の18切符で2度目の備中松山城に行き、そのとき備中松山城の水の手門跡から裏側に抜けて、天神の丸跡へ。

天神の丸は標高約480mの臥牛山最高峰天神の丸の山頂に築かれた山城で、天正の頃に備中松山城の城主・三村氏と毛利氏との間で起こった備中兵乱で、最初に陥落したところと言われている。


①番所跡
堀切を渡ってすぐのところには番所があった。



2014/02/15

富田茶臼山城跡

富田松山城跡の片上湾を挟んだ向かい側にある富田茶臼山城跡。
富田茶臼山城の出城として機能していたらしいが詳細は不明。現在は茶臼山公園となっており、遺構は全く残っていない。



①富田茶臼山城の碑
茶臼山公園の入口にある碑。



2014/02/08

富田松山城跡

この冬の18切符2つ目は、備前の富田松山城跡へ。
富田松山城は片上港の東に聳える標高209mの山頂に築かれた山城。

富田松山城は戦国時代に播州と備前東南部を扼する浦上氏の本城・三石城の支城で、当主・浦上政宗の後見役である浦上国秀が築城。備中の松田氏に対して西方面を固める城砦として築かれた。備前に宇喜多直家が台頭してくると、本城である三石城が落城し、ほぼ同時期に富田松山城も落城。その後廃城となったと思われる。



(1) 道中から見る遠景
JR赤穂線の備前片岡駅で下車。そこから南へ歩いてすぐのところから富田松山城跡を見る。



2014/02/01

千丈寺砦跡

黒井城跡の西側の尾根線上に築かれた曲輪跡を通って、その先端の千丈寺山に築かれた千丈寺砦跡へ。
千丈寺砦は、黒井城を中心として三方の尾根線上に築かれた出城の一つ。ついでに他の砦跡にも行く予定だったが、黒井城跡から千丈寺砦跡へ行く尾根線が予想以上にアップダウンが激しく、ここで限界だった。



①千丈寺砦跡東側の坂
千丈寺砦は標高346mの千丈寺山は山頂にあり、その最後の坂はかなり急斜面。登城路らしきものも見当たらず、緩やかそうなところを見付け、さらに樹の幹を支えにして登った。




2014/01/25

黒井城跡

この冬も18切符を利用しての城攻めに行ってきた。まずは黒井城跡へ。

黒井城は標高356メートルの猪ノ口山に築かれた連郭式山城で、三方尾根伝いに曲輪群を配置し全山を要塞化していた。保月城(保築城)とも呼ばれる。
黒井城は南北朝時代に赤松貞範が築城し、戦国時代には悪右衛門こと赤井直正の居城となる。その後、信長が中央に進出すると、丹波平定のために光秀軍が黒井城を攻めるが、これを撃退する。しかし赤井直正は病死し、その子の赤井直義のときに落城。黒井城には光秀の重心の斎藤利三が入城した。秀吉時代には堀尾吉晴が入城するが、近江国佐和山へ転封となった後は廃城となった。



(1) 黒井駅からの道中からみる黒井城跡
黒井城はJR黒井駅のすぐ北にあり、駅からもよく見える。山頂付近が平らになっており、いかにも城跡だと分かる形状の山。



2014/01/18

宇陀松山城跡

この日は奈良県宇陀市にある宇陀松山城跡へ。

宇陀松山城は標高472m、比高120mの古城山に築かれた山城。築城時期ははっきりとわかっていないが、南北朝時代には構えられていたと思われる。また当時は秋山氏が居城としていたことから秋山城と呼ばれていた。
戦国時代末期に豊臣秀長が大和郡山城に入城すると、秋山氏は宇陀から退去。以後、加藤光泰などの秀長の家臣の居城となり、そのころの改修により近世城郭となった。
関ヶ原の戦いの後は福島正則の弟・福島高晴が入城し、さらに大改修を行った。しかし大坂夏の陣において高晴が豊臣方に内通したとして改易、宇陀松山城は廃城、城割された。
その後に入封したのは信長の次男・信雄だが、古城山の麓に居館を造り、城は再建されなかった。

現在では国の史跡に指定され、城割されたというものの、かなり遺構が残っていた。
近鉄大阪線榛原駅でバスに乗り換え。大宇陀行きのバスで終点まで行く。



①松山西口関門
大宇陀バス停は少し行き過ぎたところにあるので、川沿いに北に戻ったところに城下町の出入口にあたる松山西口関門がある。福島時代に建てられたもので、宇陀松山城の唯一の現存建物。




2014/01/16

柳生陣屋跡

柳生城跡と道路を挟んで向かいにある柳生陣屋跡。

秀吉により所領を没収された柳生氏は、関ヶ原の戦いで家康に与して旧領を回復。柳生陣屋を築いた。



①柳生陣屋跡
柳生陣屋跡の北側の階段を上がると平地になっている。南側は庭園になっており、ここが陣屋跡かと思って引き返した。しかし、後で分かったのだが、このさらに南が居館の遺構を活かした公園となっているらしいのに、気付かず見逃した。
柳生城跡といい、この日は失敗続き。




2014/01/13

柳生城跡

笠置城跡から南へ歩いて柳生の里へ。その柳生の里にある柳生城跡。

柳生城がいつ頃に築かれたのは不明だが、この城を居住とする柳生氏は戦国時代、筒井氏に攻められて、その麾下に入る。しかし豊臣時代に隠し田が露見して所領を没収され、その頃に廃城になったと思われる。

現在、芳徳寺や道場があるところが城跡だが、その東側にある小山が主郭。しかし、勘違いしてその南の小山をウロウロしていたため、主郭はスルーしてしまった。


①柳生城跡遠景
道路を挟んだ向かいにある柳生陣屋跡から、柳生城跡を見る。
正面の建物が道場なので、奥の小山に恐らく主郭があった。


2014/01/04

笠置城跡

笠置城は、京都府の南東部・奈良県境に位置する標高289メートルの笠置山に築かれた山城。
笠置山は山中の至るところに花崗岩の巨岩が露出し、山頂には磨崖仏の巨大な弥勒仏を本尊とする笠置寺が建立して、平安時代以降、弥勒信仰の聖地として栄えた。東西に流れる木津川の南岸にあり、東・北・西の三方が急斜面となっている要害の地で、後醍醐天皇が最初に挙兵したとき、ここに篭った。7万の幕府軍相手に善戦するが、1か月後に落城し、後醍醐天皇は隠岐に流された。



①笠置駅から見る笠置城跡
笠置城跡のある笠置山は駅から東にすぐの距離だが、この日は霧が濃くて全容が見えず。