2014/08/09

広島城

この夏の18切符2つ目は広島方面に城攻め遠征へ。
初日一つ目は毛利輝元が築いた広島城で、名古屋城・岡山城と共に日本三大平城の一つに数えられている。また「鯉城(りじょう)」とも呼ばれている。

毛利輝元は中国の覇者・毛利元就の孫で、それまでの本城は吉田郡山城であった。しかし山城では交通が不便なために廃城とし、領国の中心であり水陸双方の交通の要所である太田川河口に新たに本城を築城した。時代は豊臣政権のときで、輝元が上洛したときに感銘を受けた聚楽第を参考にしたと言われ、関ヶ原の前年に完成した。
しかし輝元は関ヶ原で西軍の総大将に担がれたため、敗戦後は防長2ヶ国に減らされて萩へ移り、替わって東軍で活躍した福島正則が入城した。正則は広島城の外郭を整備し、内堀・中堀・外堀を持つ1km四方に及ぶ広大な城となった。その正則はささいなことを咎められ所領を没収され、次に紀伊・和歌山城の城主だった浅野長晟が広島城に入城し、以後、維新まで浅野氏の支配が続いた。
維新後は広島鎮台となり天守などの建物の取り壊しは免れ、さらに第二次世界大戦でも終戦間際まで戦災をも免れていたが、原爆の爆風で倒壊した。

現在は広島城址公園として整備され、天守や二の丸表御門なども復元されている。



①北東二重櫓跡
広島城はJR広島駅の西側1.5km程度の、市電もあるが徒歩圏内。南側が大手だが、広島駅から歩いていくと本丸搦手の東側に出る。
広島城本丸は南北にやや長い方形の曲輪で四隅を天守および櫓で守り、それらを多門櫓や土塀でつないでいた。






②裏御門跡
本丸東側にある裏口の門。敵の直進性を阻害するように裏御門とは左右にずれて土橋がある。内堀を横断して東側の三の丸と繋がる。

③本丸上段土塁
裏御門跡から入るとさらに内側に本丸上段があり、東面は土塁となっている。
毛利時代は石垣で囲まれていたが、西面一部と北面以外は福島正則によって崩されて土塁となった。

④本丸上段北側石垣
石垣が残っている本丸上段の北側。上段側から見た。

⑤東小天守台
広島城は天守の東側と南側に小天守を持つ連立式天守で、本丸上段の北西隅に天守がある。その東側の小天守台を本丸上段から見る。


⑥復元天守東側
小天守とは渡櫓で連結していたが、現在は何も残っていない。原爆で倒壊した天守は、昭和33年に外観復元されたが、こちら側からは入れない。


⑦天守台
本丸北西隅にある天守台。

⑧南小天守台
天守の南側にあった南小天守台。

⑨復元天守南側
南小天守も天守と渡櫓で連結されていたが現在は残っていない。復元天守への入口は南側にある。

⑩天守より南側の眺望
左側に本丸跡・右側に内堀が見え、その向こうに三の丸跡が見える。

⑪本丸上段跡
本丸上段には本丸御殿があったが、明治時代に火災により全焼した。その跡地には大本営が建てられ、そのため原爆投下の目標となった。

⑫本丸下段跡
本丸上段跡から本丸下段跡を見る。その間を繋ぐ階段は後世になって造られたもので、当時はもう少し西側にあった。

⑬中御門跡
南側の二の丸からの虎口には中御門があった。枡形虎口となっており内側に櫓門があったが、外側に高麗門はなかった。、


⑭二の丸跡
中御門の南側には二の丸があり、その間を土橋で接続されている。

⑮二の丸表御門(復元)
二の丸西側には城門の中で最も格式の高い櫓門である二の丸表御門があり、三の丸とは御門橋で結ばれている。二の丸表御門は維新後も取り壊されずに残っていたが、原爆で全焼してしまった。
表御門・御門橋とも1991年に輝元創建時の姿で復元された。

⑯二の丸平櫓(復元)
二の丸表御門の南側には平櫓があり、1994年に江戸時代の姿で復元された。

⑰太鼓櫓(復元)
二の丸南東隅にある二重櫓。櫓の二階に太鼓が釣られていることから、その名が付けられた。この太鼓の合図により、城門を開閉していた。多門櫓とともに1994年に江戸時代の姿で復元された。

⑱本丸南西櫓跡
本丸南西隅には二重櫓があった。また内堀はこの西側が広くなっており、100mほどの幅があり、鉄砲などの遠距離からの攻撃にも効果があった。

⑲復元天守
本丸・二の丸の外側はコの字状に三の丸があり、その三の丸から内堀を挟んで復元天守を見る。

⑳広島城案内図




[広島城マップ]


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