2014/08/23

吉田郡山城跡

遠征2日目は毛利氏の本城であった吉田郡山城跡へ。
吉田郡山城は、可愛川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する標高約400m(比高約200m)の郡山に築かれた山城で、城域は郡山全域に及ぶ。

南北朝時代に吉田荘の地頭職として下向した毛利時親は、郡山の南側の尾根上に城を築いて居城とした。
戦国時代に入り吉田郡山城の入城した毛利元就は、城を大規模に改修。本丸を山頂に移し、その周囲に大小270もの曲輪を階段状に連ねて、郡山全体を要塞化した。毛利元就が大内氏の被官であったころ、2から3万と言われる尼子軍に攻めこまれたが、吉田郡山城で守りぬき、援軍に来た大内氏とともに尼子軍を撃退した。(大規模改修したのはこの戦いの後という説もある)
元就・隆元・輝元時代にかけて改修を続けてきた吉田郡山城だが、山城としての限界を感じた輝元は平地の広島城を築いて居城を移した。関ヶ原後に安芸に入封した福島正則の時代に吉田郡山城は廃城となった。
現在、城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。

吉田郡山城へは広島バスセンターからのバスの方が本数が多いが、せっかく18切符があるので芸備線で吉田口駅まで行き、そこから備北交通バスに乗り大浜停留所で下車。ただし、このバスは日曜日は運休しているので注意。




(1) 吉田郡山城跡遠景
南側にある歩道橋から吉田郡山城跡を見る。左奥が吉田郡山城跡の主郭で、右手前の低い山が旧本城跡。





(2) 郡山公園
吉田小学校の裏側の道路を上がっていくと、吉田高校の北側にある公園に出る。ここも曲輪だった?

(3) 登城口
郡山公園の入口付近にある登城口から登る。


(4) 展望台
郡山公園近くの登城口から登ると、すぐ展望台に出る。ここも、いかにも曲輪跡っぽい。

(5) 展望台から南西方向の眺望
吉田盆地が見渡せる。尼子軍が吉田郡山城に攻め込んだとき、右手奥に見える小山に陣所を構えていた。

(6) 尾崎丸堀切
さらに北側に登ると、曲輪郡最大の曲輪である尾崎丸の付け根へ出る。山上側とは堀切で隔てられ、独立性の高い曲輪となっている。

(7) 尾崎丸跡
長さ42m、幅20mあり、尾崎殿と呼ばれていた毛利隆元(元就の嫡男)の居所と考えられている。

(8) 満願寺跡
尾崎丸跡から北に進み、主郭へ行く道から別れて東側に進んだ突き当りに満願寺跡がある。満願寺は築城以前からこの地にあったと言われているが、築城に伴い別の場所(広島)に移された。

(9) 勢溜の壇跡
満願寺跡から戻り主郭側へ向かうと勢溜の壇跡がある。本丸の峰から南西へ長く伸びる尾根上にある十段の大型の曲輪からなる壇で、ここに本丸守護の兵が滞在していたと思われる。

(10) 勢溜の壇下段跡
勢溜の壇から南西方向には何段もの曲輪が続いている。

(11) 御蔵屋敷跡
勢溜の壇の北東側は堀切で隔たれて御蔵屋敷跡がある。正面に三の丸がありそこから本丸へ行けるが、まずはここから時計回りにその周囲に配置された曲輪を見てみる。

(12) 釣井の壇跡
御蔵屋敷跡の北側(本丸の西、二段下)にある。直径2.5mの石組井戸があり、本丸に最も近い水源となっている。

(13) 姫の丸跡
本丸から北にのびる峰上にあり、本丸北側の要となる曲輪。この壇に基礎を置いた本丸石垣中に、元就が人柱がわりに「百万一心」の礎石を埋めたという伝説があり、幕末にそれを長州藩士が発見したと伝わる。

(14) 釜屋の壇跡
本丸の北東、15mほどの下位にあり、ここから北東の尾根上に曲輪が続く。

(15) 釜屋の壇曲輪郡跡
釜屋の壇は北東の尾根上に小さい曲輪が五段続いている。

(16) 堀切跡
釜屋の壇の北東の先端には、幅7m・高さ3mほどの大規模な堀切があり、その先の曲輪(羽子の丸)の独立性を保っている。

(17) 羽子の丸跡
釜屋の壇の先にある曲輪。頂部の面積は650㎡もあり、東と南にそれぞれ三段の曲輪に、さらに帯曲輪・付曲輪を加えた、これだけでも城として独立しうる機能をもった堅固なつくりを構えている。
ただし堀切からここへは道らしき道が見当たらない。行きはとりあえず高いところを目指せば良いが、釜屋の壇跡への帰り道が分かりにくく迷いやすいので注意。

(18) 厩の壇跡
釜屋の壇跡まで戻りそこから南(本丸の南東)にある厩の壇跡へ。

(19) 厩の壇跡
厩の壇も南東の尾根上に何段もの曲輪が連なっている。

(20) 三の丸北の段跡
厩の壇跡から西側の三の丸跡に入る。三の丸は城内で最大の曲輪で、東西40m・南北47mの広さがある。曲輪内はさらに四段に分かれている。

(21) 三の丸西の段跡
三の丸西の段からは二の丸と御蔵屋敷につながっている。

(22) 二の丸跡
三の丸跡の北側にある二の丸跡。東西36m・南北20mの広さで本丸よりやや小さい。

(23) 本丸跡
二の丸の北側にある本丸跡。郡山の山頂を平らに削って一辺35mの方形をした曲輪を造成。ここに元就の居館が建てられていたと考えれれる。


(24) 櫓台
本丸の北端は一段高くなっており、元就の時代には見張用の物見櫓が建っていた。その後、輝元の時代には天守が建てられたという説もあるが、定かではない。

(25) 二の丸西側帯曲輪跡
本丸から二の丸に戻り、そこから西側の御蔵屋敷跡へ戻る途中、その間には帯曲輪がある。

(26) 三の丸石垣
さらに一段降り、御蔵屋敷東側にある帯郭から三の丸を見る。吉田郡山城の石垣は江戸時代にほとんど崩されたが、この部分には当初の石垣がわずかに残されている。

(27) 毛利元就の墓
御蔵屋敷跡から西側へ抜けて下山すると、その途中に毛利元就の墓がある。次の毛利一族の墓より一段高所にあり、

(28) 毛利一族の墓
元就の墓より一段低いところに、初代・時親から八代・豊元までの合葬と、元就の兄・興元、興元の後を継ぐが9歳で亡くなった興元の息子・幸松松、元就の嫡男・隆元の妻の4つの墓がある。

(29) 西谷地点石垣
毛利元就の墓から南に降りて駐車場から郡山の麓に沿って西に向かう途中に石垣がある。この石垣の上は曲輪跡で、山の麓まで曲輪があったことが分かる。

(30) 吉田郡山城跡案内図
現地にあった案内図だが、釜屋の壇の位置が間違えている。案内図では三の丸の南東にあるが、釜屋の壇は本丸の北東、羽子の丸との間にある。




[吉田郡山城跡マップ]


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