2014/10/05

引田城跡

勝瑞城跡の次は、香川県の東端近くにある引田城跡へ。

香川県にある古代山城・屋島城と同時期の築城と歴史はかなり古く、その後、内海の要塞として改修が加え続けられる。
戦国時代後期、長宗我部元親による讃岐侵攻時には、三好氏の援軍要請に応えて秀吉が仙石秀久を引田城に入城させるが、仙石秀久は長宗我部軍に敗退。元親が秀吉に降伏後に、再度仙石秀久が入城するが、九州征伐での失態により秀久は改易。その後には讃岐一国を得た生駒親正が入城するが、引田城が讃岐の東に偏っているので聖通寺城に移り、引田城は廃城となった。

現在の引田城跡は、この仙石・生駒時代に改修されたと思われる石垣が残っている。




(1)引田城跡遠景
JR引田駅から、北側にある引田城跡へ向かう途中、引田港ごしに引田城跡を見る。



2014/09/28

勝瑞城跡

この夏の18切符での城攻めは讃岐・阿波へ。
今年の8月は雨ばかりで広島遠征以降はなかなか行けなくて、ほぼ1ヶ月ぶりの城攻め。

まずは旧吉野川の南岸の自然堤防上に築かれた平城である勝瑞城跡。東側には今切川、南側には湿地帯に接している要害の地であった。築上年代は定かでは無いが、承久の乱の後に阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたのが始まりという説もある。
室町時代に阿波守護・細川氏によって守護所が置かれ、戦国時代には細川氏の実権を握った三好氏の本拠となった。三好氏は一時畿内も支配したが、信長の台頭により畿内から追い出され、また四国も土佐より台頭してきた長宗我部元親の攻撃を受け敗走。そのまま廃城となった。

現在は本丸跡とその周りの堀および土塁が残っているが、その堀や土塁は、侵攻してくる長宗我部軍に対抗するために守りを固めたときのものと考えられている。




①石碑
勝瑞城跡はJR勝瑞駅の北西600mほどのところにあり、車道から城跡への入口付近にひっそりと石碑がある。



2014/09/21

岩国城

遠征最終日は標高216mの横山山頂に築かれた岩国城。

関ヶ原の戦いで西軍ながら傍観して東軍勝利に貢献した吉川広家が米子から岩国に移って築城した。
しかし完成からわずか7年後、一国一城令により廃城。広家は周防国内には岩国城しかないと主張したが、毛利本家の意向により山上部分は取り壊された。
広家は関ヶ原で毛利本家を存続させるために徳川に恩を売ったつもりが、毛利本家から見ると広家の裏切りにより西軍が敗北し、そのため3ヶ国に減らされてしまった恨みが残ったためと言われる。



(1) 大手橋(錦帯橋)
日本三名橋として観光客で賑わう錦帯橋は、岩国城と城下町をつなぐ橋として錦川に架けられた。しかし錦川の洪水の度に流失。
3代領主吉川広嘉のときに洪水に耐えられる橋をと5連のアーチ橋の錦帯橋が造られた。


2014/09/13

亀居城跡

吉田郡山城跡の次は、広島県大竹市にある亀居城跡へ。
亀居城は、広島城の支城として福島正則が築城した平山城。

関ヶ原の戦いの後に広島城へ入城した福島正則は、毛利氏の抑えのため、安芸国西部の山陽道を押さえる要地に築城した。5年もの歳月をかけて巨大な堅城を築いたが、豊臣氏と徳川氏との間に緊張が高まると豊臣恩顧大名である福島正則も徳川氏に警戒され、そのため完成よりわずか3年で廃城になった。

現在は大竹市指定史跡に指定され、亀居公園として整備されている。



①亀居城跡遠景
JR玖波駅で下車し、山陽本線に沿って下り方向に歩くと、亀居城跡のある丘陵が見えてくる。



2014/08/31

郡山旧本城

吉田郡山城のある郡山の南側尾根筋にある旧本城跡。
建武3年(1336年)に毛利時親が築城し、毛利元就が郡山全山を城郭化して山頂に移るまで、毛利氏11代・約190年間本城としていた。本丸・二の丸・三の丸を直線的に階段状に並べた、単純な縄張りである。

旧本城への道は、尾崎丸跡手前にあり、そこからまたかなり降ろされる。せっかくかなり登ったのに、この分また登らないとと思うと気が重くなる。




①堀切
旧本城の背後(山頂側)には3本の堀切がある。写真は一番良好な状態で残っている(恐らく)真ん中の堀切。残り2本は埋まってしまってかなり浅くなっており、そのうち1本は堀切かどうかも良く分からない。



2014/08/23

吉田郡山城跡

遠征2日目は毛利氏の本城であった吉田郡山城跡へ。
吉田郡山城は、可愛川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する標高約400m(比高約200m)の郡山に築かれた山城で、城域は郡山全域に及ぶ。

南北朝時代に吉田荘の地頭職として下向した毛利時親は、郡山の南側の尾根上に城を築いて居城とした。
戦国時代に入り吉田郡山城の入城した毛利元就は、城を大規模に改修。本丸を山頂に移し、その周囲に大小270もの曲輪を階段状に連ねて、郡山全体を要塞化した。毛利元就が大内氏の被官であったころ、2から3万と言われる尼子軍に攻めこまれたが、吉田郡山城で守りぬき、援軍に来た大内氏とともに尼子軍を撃退した。(大規模改修したのはこの戦いの後という説もある)
元就・隆元・輝元時代にかけて改修を続けてきた吉田郡山城だが、山城としての限界を感じた輝元は平地の広島城を築いて居城を移した。関ヶ原後に安芸に入封した福島正則の時代に吉田郡山城は廃城となった。
現在、城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。

吉田郡山城へは広島バスセンターからのバスの方が本数が多いが、せっかく18切符があるので芸備線で吉田口駅まで行き、そこから備北交通バスに乗り大浜停留所で下車。ただし、このバスは日曜日は運休しているので注意。




(1) 吉田郡山城跡遠景
南側にある歩道橋から吉田郡山城跡を見る。左奥が吉田郡山城跡の主郭で、右手前の低い山が旧本城跡。



2014/08/17

宮尾城跡

広島城の次は宮島にある宮尾城跡。
実は初日の城攻め予定は広島城だけで、広島に来たついでに厳島神社に寄ってみたら、そのすぐ近くに城跡があった。

宮尾城は厳島北西にある要害山と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた連郭式平山城。要害山という名前の割には現在は低い丘に過ぎないが、当時は城北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面し、水軍の運用も可能な城であったと言う。
大内氏の被官に過ぎなかった毛利元就は、大内義隆が重臣・陶晴賢に討ちとられた際に独立。しかし、当然ながら新たに大内氏の実権を握った陶晴賢はこれを許さず大軍で攻めてくる。普通に戦えば勝てない元就は、厳島に宮尾城を築き陶方の大軍をおびき寄せることに成功し、嵐の日に奇襲して陶晴賢を討ち取った。この厳島合戦により、独立するだけでなく中国地方の覇権を握る礎を築いた。

宮尾城という名に聞き覚えはなくても、有名な厳島合戦で囮となった城なので、気付かず通り過ぎていたら後悔するところだった。


①宮尾城跡北東面
フェリーターミナルから厳島神社へ向かう道中の観光客向け店舗のすぐ背後にある宮尾城跡。要害山と呼ぶにはあまりに低い山ですぐ落城しそうだが、当時はこちらは海だった。



2014/08/09

広島城

この夏の18切符2つ目は広島方面に城攻め遠征へ。
初日一つ目は毛利輝元が築いた広島城で、名古屋城・岡山城と共に日本三大平城の一つに数えられている。また「鯉城(りじょう)」とも呼ばれている。

毛利輝元は中国の覇者・毛利元就の孫で、それまでの本城は吉田郡山城であった。しかし山城では交通が不便なために廃城とし、領国の中心であり水陸双方の交通の要所である太田川河口に新たに本城を築城した。時代は豊臣政権のときで、輝元が上洛したときに感銘を受けた聚楽第を参考にしたと言われ、関ヶ原の前年に完成した。
しかし輝元は関ヶ原で西軍の総大将に担がれたため、敗戦後は防長2ヶ国に減らされて萩へ移り、替わって東軍で活躍した福島正則が入城した。正則は広島城の外郭を整備し、内堀・中堀・外堀を持つ1km四方に及ぶ広大な城となった。その正則はささいなことを咎められ所領を没収され、次に紀伊・和歌山城の城主だった浅野長晟が広島城に入城し、以後、維新まで浅野氏の支配が続いた。
維新後は広島鎮台となり天守などの建物の取り壊しは免れ、さらに第二次世界大戦でも終戦間際まで戦災をも免れていたが、原爆の爆風で倒壊した。

現在は広島城址公園として整備され、天守や二の丸表御門なども復元されている。



①北東二重櫓跡
広島城はJR広島駅の西側1.5km程度の、市電もあるが徒歩圏内。南側が大手だが、広島駅から歩いていくと本丸搦手の東側に出る。
広島城本丸は南北にやや長い方形の曲輪で四隅を天守および櫓で守り、それらを多門櫓や土塀でつないでいた。




2014/08/02

鬼ノ城跡

また18切符の季節になったので、それを利用して城攻め再開。
この夏の18切符一発目は、吉備高原南縁の標高約400mの鬼城山に築かれた鬼ノ城跡。
駅から遠くバスも無い僻地なのでなかなか行けなかったが、今回はレンタサイクルを利用して移動。ただ最寄り駅の服部駅には何も無いので、二つ先の総社駅のレンタサイクル店を利用した。

鬼ノ城は鬼城山の8~9合目あたりの急斜面にさらに高さ約6mの城壁が築かれた神籠石系山城。
7世紀の白村江の惨敗により本土防衛のために築かれたという説が有力であるが、日本書紀等の文献には記載がなく謎に包まれている。



1. 鬼ノ城跡遠景
レンタサイクルでの道中から鬼ノ城跡を見る。この辺りまではほぼ平地なのでスイスイ来れたが、もう少し先からほぼ上り坂オンリーとなり、自転車ではかなりきつかった。




2014/06/28

鹿児島城跡

2年前の九州出張ついでの城攻めのラストは鹿児島城跡。

鹿児島城は標高約107mの中世の上山城跡(城山)の麓に築かれた平城。屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから鶴丸城とも呼ばれていた。
関が原の戦いでは敗北した西軍に属していながら本領を安堵された島津家久が、戦後に築いた。公称77万石の大藩の居城にも関わらず、天守はもちろん二重櫓も無く、本丸と二の丸が並んだ単純な縄張りだった。



①御楼門跡
大手門にあたる御楼門跡。櫓門となっていて、この櫓門が天守も多重櫓も無い鹿児島城の象徴であった。