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2013/11/05

撫川城跡


2012年春の18切符5つ目は岡山県。まずは撫川(なつかわ)城跡。

撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な沼城で、備中国の備中松山城の城主・三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築かせた。三村氏滅亡後は毛利氏の出城となり、 秀吉の備中攻めの際には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなる。備中高松城の攻防時に秀吉軍により落城し、その後は宇喜多氏の支配下になるが、秀吉と毛利との和解後に廃城となった。
江戸時代に入り、戸川氏が撫川城の東に庭瀬城を築いたが、その戸川庭瀬藩は4代で改易。分家の戸川逵富が5000石で再興し、撫川城本丸跡に陣屋を築いた。



①本丸跡西側の石垣と堀
高さ4mの高石垣が現存している。




2013/06/06

備中高松城跡

備中松山城の次は、備中高松城跡へ。
遺構はほとんど残っていないが、水攻めから本能寺の変での秀吉の中国の大返しという歴史的イベントのあった場所なので、訪れてみた。

摂津から播磨方面で苦戦していた信長陣営だが、寝返っていた有岡城・尼崎城・別所城も開城、石山本願寺とも和解(実質的に勝利)と後顧の憂いを絶ち、さらに宇喜多が織田に寝返って、備中に大攻勢をかける。
一方、攻勢にさらされる毛利陣営では山陽道を統帥する小早川隆景から、備前備中の国境に近い7城の城主に対し、激励のためにそれぞれ太刀を与えられた。これらの城主の守る城を備中境目七城と言い、備中高松城はその備中境目七城でも特に中心となる城である。

備中高松城は平城であったが、周囲が低湿地帯のため難攻不落の城であった。そこで秀吉は城の周りに堤防を築き、近くを流れる足守川の水をせきとめての水攻めを行う。ちょうど梅雨の時期で足守川が増水したため城の周りは湖と化した。これにより補給路が絶たれた備中高松城は開城。その直前に本能寺の変を知った秀吉は、ここから中国の大返しを行い、光秀を討って、天下人に上り詰める。
開城した備中高松城には宇喜多氏の家老・花房正成が入城。関ヶ原の戦いで主家とは逆に東軍に付いた花房氏は旗本に取り立てられ、後に転封したときに備中高松城は廃城となった。




①高松城址公園
遺構は何も残っていないが、天然の堀を形成していた城の周囲の低湿地帯を再現している。