昨夏の18切符を利用しての四国城攻め旅行の2日目、大洲城の次は宇和島城へ。
宇和島城は標高77mの城山に築かれた平山城。
鎌倉時代にこの地を勢力化に置いた西園寺氏が築いた丸串城が始まり。戦国時代には大友氏や長宗我部氏等の攻撃を凌いだが、秀吉に降伏。豊臣時代に入城した藤堂高虎が大改修して現在の縄張りを築いた(天主などの建物は、江戸時代になってこの地に入封した伊達氏によるもの)。外郭は五角形で、そのうち二辺が海に面し、残り三辺は海から接続する堀によって囲まれる海城であった。
維新後に大半の建物が撤去。三辺の堀だけでなく、残る二辺の海岸も埋め立てられ海城の面影は無くなった。天守以外で残っいた追手門も空襲により焼失して、現在は天守と上り立ち門、石垣が現存する。
ちょうど宇和島城保存整備工事中ということで、あちこちでブルーシートを見かけ、通行できない場所も色々あった。本丸と現存天守が無事だっただけで良しとすべきだが、辺鄙な場所でそうそう行けないだけに、残念だった。
①桑折氏武家長屋門
藩の家老・桑折(こおり)氏の長屋門として使用されていたが、道路拡張時に撤去されここに移転。当時は間口が35mと実に立派なものであったが、移転場所がせまいため向かって左方の大部分が切り取られて間口15mほどと半分行かになってしまった。
2013/06/29
2013/06/28
大洲城
昨夏の18切符での四国城攻め旅行の2日目。松山城の次は伊予大洲に向かい、大洲城へ。
大洲城は鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房が築城したのが始まり。戦国時代になると毛利氏、長宗我部氏、豊臣氏と次々と支配者が替わり、豊臣時代に藤堂高虎、江戸時代初期に洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
維新後の廃城令でも本丸の天守・櫓の一部は保存されたが、天守は老朽化等により明治21年に解体された。その後、平成になってから天守が木造で復元された。
城では何故か竜馬押し。竜馬の幟があちこちに立っていたが、大洲城と坂本龍馬ってほとんど接点が無かったはず。脱藩したときに大洲藩を通って長州に行ったというのと、海援隊が運用していた「いろは丸」が大洲藩の所有物というぐらい。大洲藩との接点は無いことも無いが、藩との接点も弱い上に城となると全く接点が無い。竜馬は一度も大洲城に登城すらしていないだろう。
いくら大河ドラマでやっていた人気者とはいえ、ほとんど関係無い人で客寄せするのはどうかと思う。せっかくの木造復元天守と重文の現存櫓が泣くいているぞ。
①肱川の河畔に望む大洲城
伊予大洲駅から大洲城へ向かっている途中、紘川に架かっている紘川橋から。
大洲城は鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房が築城したのが始まり。戦国時代になると毛利氏、長宗我部氏、豊臣氏と次々と支配者が替わり、豊臣時代に藤堂高虎、江戸時代初期に洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
維新後の廃城令でも本丸の天守・櫓の一部は保存されたが、天守は老朽化等により明治21年に解体された。その後、平成になってから天守が木造で復元された。
城では何故か竜馬押し。竜馬の幟があちこちに立っていたが、大洲城と坂本龍馬ってほとんど接点が無かったはず。脱藩したときに大洲藩を通って長州に行ったというのと、海援隊が運用していた「いろは丸」が大洲藩の所有物というぐらい。大洲藩との接点は無いことも無いが、藩との接点も弱い上に城となると全く接点が無い。竜馬は一度も大洲城に登城すらしていないだろう。
いくら大河ドラマでやっていた人気者とはいえ、ほとんど関係無い人で客寄せするのはどうかと思う。せっかくの木造復元天守と重文の現存櫓が泣くいているぞ。
①肱川の河畔に望む大洲城
伊予大洲駅から大洲城へ向かっている途中、紘川に架かっている紘川橋から。
2013/06/27
湯築城跡
松山に一泊してから翌朝に松山城本壇に入ったが、その開城時間までの間に、近くの湯築城跡にも行ってきた。
湯築城は南北朝時代に伊予国守護河野氏によって築城された梯郭式平山城。戦国時代に入り長宗我部元親が台頭してくると、その圧力に抗しきれず降伏。さらに豊臣秀吉の四国平定に際して小早川隆景軍に湯築城を開城、秀吉の四国平定後に廃城となった。現在は道後公園として整備されている。
正直、この程度の城跡が何故日本100名城に選ばれたのか不思議でならない。
かなり整備されているとは言えるが、規模は小さい上に復元されたものばかりで当時の遺構はあまり無いし、この城が歴史的に重要な役割を果たしたわけでも無いし、愛媛県は他にも日本100名城に選ばれた城が多く(5個指定は最も多い県)、都道府県のバランスを考慮されたわけでも無い。本当に謎だ。
①西口
市電の道後公園駅すぐそばが西口となる。当時は搦手門があった。
湯築城は南北朝時代に伊予国守護河野氏によって築城された梯郭式平山城。戦国時代に入り長宗我部元親が台頭してくると、その圧力に抗しきれず降伏。さらに豊臣秀吉の四国平定に際して小早川隆景軍に湯築城を開城、秀吉の四国平定後に廃城となった。現在は道後公園として整備されている。
正直、この程度の城跡が何故日本100名城に選ばれたのか不思議でならない。
かなり整備されているとは言えるが、規模は小さい上に復元されたものばかりで当時の遺構はあまり無いし、この城が歴史的に重要な役割を果たしたわけでも無いし、愛媛県は他にも日本100名城に選ばれた城が多く(5個指定は最も多い県)、都道府県のバランスを考慮されたわけでも無い。本当に謎だ。
①西口
市電の道後公園駅すぐそばが西口となる。当時は搦手門があった。
2013/06/26
松山城
今治城の次は、今回の四国城攻めのメインイベント・松山城へ。
松山城は松山市の中心部、標高132mの勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城で、関が原の合戦での功により加増された加藤嘉明が築城した。その後、加藤氏は転封、替わりに入封した蒲生氏は断絶したため、松平氏が入封して親藩として明治維新を迎える。維新後においても本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはなく、昭和に入り放火や戦災により一部の門や櫓などが焼失したものの当時の遺構がかなり残っている。
現在は21棟もの建築物が重要文化財に指定されており、これは姫路城に次いで2番めに多い。(もっとも姫路城は74棟とまさに段違いの多さだが。)
さらに焼失した建築物も昭和40年代から本格的な木造による復元が行われている。
また日本100名城、日本三大平山城(他は姫路城と津山城)、日本三大連立式平山城(他は姫路城と和歌山城)に選ばれている。
この日に松山に着いたのは夕方で、すでに本壇への入場時間は終了していた。この日は松山で一泊して、夕方と翌朝に松山城を見学。その夕方と翌朝の写真が混在していて時系列としてはバラバラだが、一定のコースに沿って並べてみる。
<二之丸西側から登城>
JR松山駅から来ると城の南西部に着くので、二之丸西側から大手道(黒門口登城道)を通って、松山城へ登城する。
(1) 三之丸跡と本壇
城山南西山麓に三ノ丸跡があり、その周りの堀も現存している。
JR松山駅から歩いて城に向かうと、三ノ丸南側の道路を通るので、三ノ丸と水堀ごしに松山城の勇姿が見えてくる。
松山城は松山市の中心部、標高132mの勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城で、関が原の合戦での功により加増された加藤嘉明が築城した。その後、加藤氏は転封、替わりに入封した蒲生氏は断絶したため、松平氏が入封して親藩として明治維新を迎える。維新後においても本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはなく、昭和に入り放火や戦災により一部の門や櫓などが焼失したものの当時の遺構がかなり残っている。
現在は21棟もの建築物が重要文化財に指定されており、これは姫路城に次いで2番めに多い。(もっとも姫路城は74棟とまさに段違いの多さだが。)
さらに焼失した建築物も昭和40年代から本格的な木造による復元が行われている。
また日本100名城、日本三大平山城(他は姫路城と津山城)、日本三大連立式平山城(他は姫路城と和歌山城)に選ばれている。
この日に松山に着いたのは夕方で、すでに本壇への入場時間は終了していた。この日は松山で一泊して、夕方と翌朝に松山城を見学。その夕方と翌朝の写真が混在していて時系列としてはバラバラだが、一定のコースに沿って並べてみる。
<二之丸西側から登城>
JR松山駅から来ると城の南西部に着くので、二之丸西側から大手道(黒門口登城道)を通って、松山城へ登城する。
(1) 三之丸跡と本壇
城山南西山麓に三ノ丸跡があり、その周りの堀も現存している。
JR松山駅から歩いて城に向かうと、三ノ丸南側の道路を通るので、三ノ丸と水堀ごしに松山城の勇姿が見えてくる。
2013/06/25
今治城
福山城の後は尾道経由で今治城へ行った。ただしこの尾道・今治ルートはバスで移動。せっかく18切符を使用しているのでJRで行きたいところだけど、鉄道が無い以上仕方が無い。
福山や尾道では天気が悪かったが、ここへ来て晴れてくれた。予報でも悪かったので、本当にありがたい。
今治城は関が原の合戦の功により伊予半国を与えられた築城の名人・藤堂高虎が築いた城で、普請奉行は槍の勘兵衛こと渡辺了。構造は三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることがでた。築城当時は天守も存在したが、高虎によって丹波亀山城へ移築され、その後は天守は存在しなかった。 また維新後の廃城令により城内の建物はすべて取り壊された。
現在、遺構としては石垣と内堀が残るだけだが、昭和に5重6階の天守が鉄筋コンクリートで再建。平成になってからは鉄御門や多聞櫓5棟が可能な限り江戸時代の史実に基づいた形で復元している。
高松城、中津城とともに日本三大水城の一つに数えられている。
①西側から見た今治城
今治駅が西にあるので、そこから今治城へ行くとこの角度の今治城がまず目に入る。
広い幅の内堀に高石垣という防御力が高そうな縄張りであることが分かる。
福山や尾道では天気が悪かったが、ここへ来て晴れてくれた。予報でも悪かったので、本当にありがたい。
今治城は関が原の合戦の功により伊予半国を与えられた築城の名人・藤堂高虎が築いた城で、普請奉行は槍の勘兵衛こと渡辺了。構造は三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることがでた。築城当時は天守も存在したが、高虎によって丹波亀山城へ移築され、その後は天守は存在しなかった。 また維新後の廃城令により城内の建物はすべて取り壊された。
現在、遺構としては石垣と内堀が残るだけだが、昭和に5重6階の天守が鉄筋コンクリートで再建。平成になってからは鉄御門や多聞櫓5棟が可能な限り江戸時代の史実に基づいた形で復元している。
高松城、中津城とともに日本三大水城の一つに数えられている。
①西側から見た今治城
今治駅が西にあるので、そこから今治城へ行くとこの角度の今治城がまず目に入る。
広い幅の内堀に高石垣という防御力が高そうな縄張りであることが分かる。
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