2013/09/05

鳥羽城跡

今年の夏の18切符、3つ目は南伊勢から志摩方面の城攻めに行ってきた。
大阪からこの方面へは普通は近鉄で行くのだが、今回は18切符利用のためJRで行った。近鉄だと特急を利用しなくても鳥羽まで3時間ぐらいで行けるが、JRだと5時間近くかかった。やはりこの方面へは近鉄だな。

鳥羽城は九鬼嘉隆が三方を海に囲まれた要害の地に1594年に築かれた平山城。九鬼水軍の城らしく、大手門が海側に設けられていた。城の陸側は白壁、海側が黒壁になっており、その二色が錦になって、錦城とも呼ばれる。
関ヶ原の合戦で親子が分かれて戦うというと真田氏が有名だが、この九鬼氏も嘉隆・守隆の親子で東西に分かれて戦った。東軍についた守隆は鳥羽城を安堵されるが、守隆の死後は九鬼氏は内陸の摂津三田に転封され、その後は次々と城主が入れ替わった。九鬼氏の次に城主となった内藤忠重により、二の丸や三の丸が増設され、近世城郭としての体勢が整った。
明治に廃城となり、建造物が撤去されたと言うだけでなく、海側の斜面は道路や鉄道のために削平された。



①相橋と相橋門跡
鳥羽城の北側にある妙慶川は伊勢・志摩両国の境となった川で、鳥羽城の堀としても機能していた。江戸時代はこの北側に武家屋敷があったため、相橋を通って城に上がり、対岸には相橋門と呼ばれる城門があった。






②家老屋敷跡
相橋を渡って南に進み、丘陵を登っていくと家老屋敷の立派な石垣がある。屋敷跡は幼稚園となっていた(現在は廃園)。

③曲輪跡
家老屋敷跡横の階段を上がると、かなりの広さの曲輪跡に出る。規模や位置関係から二の丸跡かと思っていたが、現地の案内板を見ると二の丸跡はこの西側らしい。

④二の丸跡
先ほどの曲輪跡から見下ろした先の近鉄線があるあたりが二の丸跡。
二の丸跡が丘陵の麓にあったわけではなく、明治以降に削平された。

⑤三の丸跡
二の丸の南側には三の丸があった。ここも削平された場所で、最近になって三の丸広場として整備された。

⑥段々石垣
三の丸跡の背後の斜面は段々畑ならぬ段々石垣となっていた。
敵にわざわざ足場を与えるような石垣を作っていたわけではなく、もちろん後世になってから整備された。


⑦本丸石垣
三の丸跡の斜面の上、丘陵の南側には本丸跡があり、その石垣が遺構として残っている。鳥羽城跡ではこの本丸石垣と、家老屋敷跡の石垣が現存の石垣。

⑧本丸跡
鳥羽城があった丘陵の南側には本丸があった。当時は天守もあったが、天守台は残っていない。
廃城後は鳥羽小学校のグラウンドとなっていたらしいが、現在は移転した。

⑨本丸跡からの眺望
本丸跡の北側からは鳥羽湾が見下ろせ、絶好のビューポイントとなっていた。

⑩鳥羽城跡遠景
鳥羽城跡より南側にある中之郷駅付近から見た鳥羽城跡。

⑪鳥羽城縄張り図




[鳥羽城跡マップ]


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