丸亀城は標高66mの亀山に築かれた輪郭式平山城。山麓から山頂まで4重に重ねられた石垣は、総高60mで日本一高い。現存12天守の一つだが、天守の大きさはその中で一番小さい。
丸亀城は高松藩主生駒氏が高松城の出城として築城。江戸時代になり一国一城令のため一旦廃城となるが、讃岐藩が東西に別れて西讃岐藩が成立したため、復活。その西讃岐藩は瀬戸内海を睨む要所となるため、築城の名手と言われた山崎家治が移封された。家治は全山を三段による石垣で囲い込む城に改修するが、家治の代では完成せず、その子・孫も夭折したため山崎氏は断絶。その後に城主となった京極氏の時代になってようやく完成、実に32年もの歳月がかかった。
現在は城跡の全域が国の史跡に指定されており亀山公園となっている。
(1) 丸亀城 遠景
JR丸亀駅が城の北側にあり、そこから歩いていくと、正に石垣と城というべき威容が目前に広がる。
(2) 内堀
亀山の周りには山下曲輪があり、その曲輪の外側は内堀で囲われている。
(3) 大手二の門(重要文化財)
丸亀城の大手門は北側にあるが、生駒氏の時代は南側に大手門があった。当時は南に広がる丸亀平野から攻めてくることを想定していたが、江戸時代になると逆に瀬戸内海側から攻めてくることを想定して大手門を北側に変更したと言われる。
(4) 大手枡形
大手門は枡形構造となっており、高麗門である二の門から入り、右折して櫓門である一の門に向かう。
(5) 大手一の門(重要文化財)
この楼上で太鼓を打って時刻を知らせたことから、太鼓門とも呼ばれる。
(6) 玄関先御門
亀山の北西側には御殿があったが、明治2年に火災で焼失した。玄関先御門はその火災を免れて残った現存の門。
(7) 番所長屋
表御門に隣接しており、この番所長屋も火災を免れた。
(8) 三の丸高石垣
丸亀城の石垣の中で最も高い石垣は三の丸北東隅の石垣で、20m以上ある。
熊本城の武者返しのような勾配であるが、丸亀城では「扇の勾配」と呼ばれている。
(9) 三の丸東石垣
三の丸高石垣の足元で右折して三の丸跡へはいるが、その左側にある石垣は、平成になってから修復工事を行った。その際、崩壊していた石垣も新石で復元したため、その部分だけ明らかに色が変わっている。
(10) 二の丸北東隅の石垣と三の丸高石垣
その三の丸東石垣の上から西側を見る。左上に見えるが二の丸で、その周りを三の丸が囲っている。
(11) 二の丸虎口
三の丸高石垣と東石垣の間の坂を登って三の丸に入りしばらく進むと、右側に二の丸への虎口がある。ここから二の丸に入るのが大手道。
(12) 三の丸の月見櫓跡
二の丸虎口を横目に直進した先の、三の丸の南東の隅には月見櫓と呼ばれる櫓があった。丸亀城で一番高い石垣は三の丸北東の高石垣であるが、ここの高石垣も見事だ。
(13) 三の丸跡から見た搦手
月見櫓跡を右折して三の丸の南端に沿って西に進むと、その下に搦手が見えてくる。
(14) 搦手から見た三の丸石垣
三の丸の南から搦手へ行き、途中で三の丸を振り返る。
(15) 三の丸井戸と本丸石垣
また三の丸跡へ戻り、さらに西側へ進むと三の丸井戸がある。井戸の直径は約2.5m、深さは約56mの井戸で、現在は空井戸となっている。城外への抜け穴伝説がある。
丸亀城は本丸と二の丸が東西に並んでおり、その周りを三の丸が囲っているので、三の丸の西側から見える石垣は本丸である。
(16) 本丸北西隅櫓石垣
三の丸跡を本丸石垣に沿って北に進むと櫓の石垣がある。本丸の北西隅には二重櫓があり、天守とは多門櫓で繋がっていた。
(17) 二の丸搦手から見た天守(重文)
三の丸北側と本丸北側の間には搦手があり、そこから二の丸へ入る。往時は門で区切られていた。
(18) 本丸から見た天守(重文)
3層3階の木造天守で、床面積で言うと現存12天守の中で最小である。(高さの最小は備中松山城)
西側に出入り口があるが、これは観光用に作られたもので、本来は多門櫓から出入りする。
(19) 天守内部
最上階である三階の内部。
(20) 天守から見た北側眺望
あいにく靄っていたが、天気が良ければ瀬戸内海が綺麗に見えるはず。
(21) 天守内に展示されている烏天狗形変わり兜
変わり兜とは、兜の正面・側面・背面に色々な物象をつけたものや兜鉢時代を変わった形に造り込んだものなど、ユニークな形でひと目を引く兜のことを言う。
(22) 天守内に展示されている鬼面形変わり兜
(23) 丸亀城案内図
現在は内堀に何本も橋がかかっているが、往時は大手と搦手の2本だけであった。方角は逆で下が北。
[丸亀城マップ]
より大きな地図で 丸亀城 を表示
0 件のコメント:
コメントを投稿