2013/07/31

丹下砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、4つ目は丹下砦跡。
5/19未明に清州城を飛び出した信長は熱田神社で軍勢を整え、その後に鳴海城の北にある丹下砦に入る。熱田神社で軍勢を整えていたとき、鷲津丸根砦方面から煙があがっているのが見えて、その時点で両砦が陥落したことが分かったと言う。

丹下砦は、鳴海城が大高城とともに今川義元の支配下となった時に、その鳴海城に対抗するため善照寺砦中嶋砦とともに築かれた砦である。

現在、丹下砦は跡形も無くなっており、さらに案内板等も一切無かった。



①光明寺
鳴海城跡の北にある光明寺の裏手が城跡に当たるが、大部分が墓と住宅になっており、遺構は何も残っていない。



2013/07/27

鷲津砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、3つ目は鷲津砦跡。
丸根砦とともに大高城を包囲している砦の一つだが、丸根砦とほぼ同時に攻撃を受け5/19早朝、朝比奈泰朝に攻め落とされる。

鷲津砦は比高差20~30mの丘陵地・大高緑地の北西端に位置し、大高城から北東に500mほどの地点に築かれた平山城。鳴海城と大高城との間の連絡を断ち、大高城包囲網の一環をなす砦であった。
桶狭間で今川義元が討たれた後は、織田と徳川間で同盟が結ばれ存在価値が無くなったために丸根砦同様廃城となった。

現在は国の史跡に指定され、丸根砦跡より規模は大きいものの、遺構はあまり明確では無い。



①遠景
鷲津砦跡はJR大高駅の東側すぐのところにあり、大高駅ホームからよく見える。思っていたより大きい丘陵地に築かれていた。



2013/07/25

丸根砦跡

桶狭間関連の城・砦跡、2つ目は丸根砦跡。
大高城への兵糧入れに成功した松平元康は、その直後に丸根砦を猛攻撃。5/19早朝に丸根砦を攻め落とし、織田方の守将であった佐久間盛重は討ち死。丸根砦を守っていた織田兵も全滅した。

丸根砦は大高城の東側800m、鳴海から延びる丘陵の先端に築かれた平山城。織田方の鳴海城・大高城が今川方に調略された後、両城間の連絡を断つと共に、大高城を包囲する役割を担っていた。
桶狭間で今川義元が討たれた後は、織田と徳川間で同盟が結ばれ存在価値が無くなったために廃城となった。

現在は国の史跡に指定され、規模は小さいものの遺構が残っている。



①遠景
南側から見た丸根砦。この坂を登って行くと丸根砦跡へ行ける。


2013/07/22

大高城跡

過去の未アップがまだまだ残っているが、また夏の18切符の季節が来て早速行ってきたので、そちらを先に。
13年夏の18切符1つ目は桶狭間の戦い関連の城跡・砦跡。その桶狭間のイベント順に、まずは大高城跡。
1560年5月18日夜、今川方の松平元康が大高城への兵糧入れに成功。大高城は織田方の砦に包囲され、兵糧攻めに合っていた。

大高城は比高20mほどの台地に築かれた平山城。築城年代ははっきりしないが、南北朝時代には城があったらしい。織田信秀の頃は織田方であったが、信秀の死後は今川方に。朝比奈氏や鵜殿氏といった今川の家臣が城を守っていて、桶狭間で今川義元が討たれたときは、兵糧入れに成功した松平元康が大高城を守っていた。元康はそのまま岡崎城へ帰り、大高城は廃城となった。

JR大高駅の南側にあり、普通に歩いて行ける距離にはあるが、案内が少なく城跡への道が分かりにくい。また市街地のど真ん中にある割には、遺構はかなり良好に残っていた。


①石碑
北側に登城路があり、その道を少し上がったところに石碑がある。この道をさらに上がると2郭跡に行く。



2013/07/18

月山富田城跡

18切符での山陰城攻め旅行、2日目。松江城で折り返しての月山富田城。

月山富田城は、標高197mの月山山上に本丸をおく複郭式山城。日本五大山城および日本五大山岳城に選ばれている。
月山富田城の歴史はかなり古く、平安時代の保元・平治の頃に平氏の武将が築城したとの伝承がある。
戦国時代には尼子経久がここを本拠にして中国地方最大11カ国まで勢力を拡大し、それとともに城も拡張、難攻不落の城を築いた。しかし毛利元就の台頭と共に衰え、経久の曾孫・義久のときに毛利軍に包囲され降伏・開城する。
江戸時代に入り、この地に入封した堀尾忠氏は松江城を築城して、月山富田城は廃城となった。

JRの最寄り駅は安来駅。駅から離れているので、そこから安木市イエローバス・広瀬バスターミナル行きに乗って、「市立病院前」で下車。



①月山富田城跡遠景
周囲を断崖絶壁で囲まれた難攻不落の城で毛利軍が大群で包囲しても力攻めでは落城せず、兵糧攻めにより降伏した。



2013/07/16

松江城

18切符を使った山陰城攻め旅行の初日、米子城跡の次は現存12天守の一つ・松江城へ。

松江城は亀田山に築城した輪郭連郭複合式平山城。城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており、膳所城・高島城とならんで日本三大湖城となっている。
関ヶ原の戦功により出雲に入封した堀尾忠氏だが、山城の月山富田城では不便ということで平野部に新たに城を築城。しかし忠氏は急死しため、実際には忠氏の実父で隠居していた吉晴が築城した。その吉晴も完成直前に死去、松江城主となった孫の忠晴も嗣子なく没し、堀尾氏は3代で改易となった。その後、若狭国小浜藩から入封した京極忠高が三の丸を造営した。その京極氏も忠高が嗣子なく没し廃絶、その後は信濃国松本藩より入封した松平氏が維新まで続いた。
それにしても外様大名が心血を注いで築いても、最後は親藩や譜代の城となっているパターンが多いような気がする。現存天守のある城ではこの松江城以外でも、加藤嘉明が築いた松山城(最後は松平氏)とか、池田輝政が築いた姫路城(最後は酒井氏)とか。

維新後の廃城令で、天守を除く建造物は全て撤去された。天守も売却されることとなったが、地元の有志が買戻して取り壊しは中止、保存されることとなった。
現在は松江城山公園として整備され、昭和に本丸一ノ門と南多聞の一部が復元。平成になってから、千鳥橋・北惣門橋・二の丸南櫓・中櫓・太鼓櫓等が復元した。



(1)二之丸石垣と内堀
二の丸の南側にある三の丸跡から見た二の丸石垣と内壕。
2つの櫓は、復元された南櫓と中櫓。



2013/07/14

米子城跡

18切符での城攻めは日帰りが基本なのだが、昨夏は四国だけでなく、山陰へも泊まりがけで出かけた。まずは天守が2つあった米子城跡。

米子城は、吉川広家が標高90mの湊山に築いた梯郭式平山城。月山富田城を居城にしていた広家は湊山に新城を築いたが、その途上、関ヶ原の戦いで敗退して岩国へ転封される。替わって伯耆に入封した中村一忠が米子城築城を継続し、米子城を完成させた。このとき、吉川広家の作った天守の隣に新しい天守を作った。
維新後は民間に売却されたが維持できず、大小天守とも解体され風呂屋の薪となったとのこと。風呂屋の薪って、何ちゅう勿体無いことを…

朝一の列車に乗って、一つ目の城が午後になったのは初めて。本当に大阪からは遠かった。
これだけ遺構が立派に残っていても、ここは日本100名城には指定されていない。湯築城跡を選ぶぐらいなら、こっちだと思うけどなー。



(1)米子城跡遠景
城跡は米子駅に近くて普通に歩いて行ける距離。駅から城跡に向かって歩いていると、進行方向の先に米子城跡が見えてくる。



2013/07/11

田辺城

宮津城跡の次は、田辺城へ。

田辺城も細川藤孝が築いた城で、始めは宮津城を本城としていたが、後にこちらを丹後経営の中心とした。関が原の戦いのときには、西軍の1万5千人もの大軍で包囲されるが、50日間守った城として有名。このとき、忠興が大多数の兵を率いて関ヶ原に行っていたので、守兵はわずか500人程度であった。
京極高知が入封すると本拠を宮津城に移して田辺城は一旦廃城となるが、高知死去後は三人の子供に分割相続されたため、田辺城は再興された。

現在、田辺城跡は舞鶴公園になっており、二層櫓と大手門が再建されている。





①大手門(再建)
本来の内堀だった場所に再建された。同じ再建するなら、本来の場所に再建すればいいのに。
櫓門の2階部分は資料館となっている。



2013/07/10

宮津城跡

昨夏の18切符の7つ目は京都北部に行って、宮津城跡。

宮津城は、信長により丹後国を与えられた細川藤孝が築いた城。関ヶ原の戦いでは西軍の攻勢を防ぐために田辺城に篭城し、その時自らの手で宮津城は焼き払われた。後に細川家が豊前国に転封すると、京極高知が入封して宮津城は大規模に改修された。
維新で廃城になった後は、城地の市街化が進み、現在は遺構と呼べるものがほとんど残っていない。



①鉄門の袖石垣
本丸入り口鉄門の袖石垣の一つ。宮津城の数少ない遺構。




2013/07/09

鳥取城跡

昨夏の18切符は丸岡城が5つ目で、お盆前に終了してしまった。まだ夏の18切符の期間が結構残っているし、さらにお盆休みも残っている。ということで18切符を追加購入し、6つ目は鳥取城跡へ。

鳥取城は、標高263m(比高259m)の久松山頂の山城部(山上の丸)と、山麓の平山城部(山下の丸)からなる梯郭式の城郭。
戦国時代中期に因幡山名氏・山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したのが始まり(但馬山名氏・山名祐豊の付城として築城したという説もある)。その後、山中幸盛や毛利元春、羽柴秀吉等に攻め落とされ、何度も城主が交代する。その秀吉による「鳥取の飢え殺し」は有名で、兵糧を高値で買い占められた後に秀吉軍に包囲され、開城した。
鳥取城はその後に城主になった秀吉配下の宮部継潤により大改修。山上や山麓に石垣・櫓を配し、近世城郭の基礎を築いた。しかし関ヶ原で西軍についたため改易。関ヶ原の戦いの功で入封した池田長吉、その後の池田光政により山麓部分を大改修して拡張。現在の城跡の多くは江戸期の遺構となる。
ややこしいが、長吉と光政、そしてその後に入城した光仲は別系統の池田家(いずれも池田恒興を祖とするが)。長吉系は因幡鳥取の後は備中松山へ、光政系は播磨姫路から因幡鳥取に来てそして備前岡山へ、光仲系は入れ替わりに備前岡山から因幡鳥取へ。このように池田家は外様でありながら、三家が大名として存続していた。

維新後は全ての建造物は払い下げられ、残された石垣も1943年の鳥取大地震で多くが崩された。しかし国の史跡に指定されたのを機に修復が行わた。さらに2006年から30年かけて幕末期の姿へ復元する計画があり、訪れた時は中之御門大手門登城ルートが工事中であった。

最寄り駅は鳥取駅。18切符で移動したのだが、途中の智頭急行は私鉄なので別料金発生。津山経由だとJRのみで行けるが、遠回りの上、本数が少ないので智頭急行を利用した。



(1)鳥取城跡遠景
鳥取市街地から見た鳥取城跡のある久松山。鳥取駅から城跡の近くまでバスがあるが、バスを待っている間に着くような距離なので歩いて行った。




2013/07/08

小丸城跡

府中三人衆の最後は佐々成政の小丸城跡。

小丸城は、越前国で起こった一向一揆を織田信長が収めた後、府中三人衆の佐々成政が築城した。しかし佐々成政は6年後に越中に転封、そのまま廃城となったため、未完であった可能性も高い。

府中三人衆の他の二人の城・越前府中城跡龍門寺城跡は武生駅の近くで歩いていける距離だったが、この小丸城跡は武生駅から東にかなり離れた場所なので、レンタサイクルを利用した。レンタサイクルは福井鉄道の越前武生駅でやっていたので、それを利用した。



①石碑
小丸城の本丸跡の部分は盛り土になっており、その手前の南側には石碑がある。


2013/07/07

龍門寺城跡

府中三人衆の城跡2つ目は、不破光治の龍門寺城跡。

龍門寺城は、富田長重が龍門寺を拡張した城で、織田軍の朝倉攻めの本陣となった。一向一揆により織田家の手から離れた越前を再び平定した後は、府中三人衆の一人・不破光治が入城した。この城は不破光治の城というより、賎ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家を前田利家が迎えたことで有名。



①石碑
龍門寺山門の脇に、「龍門寺城址」の石碑がある。



2013/07/06

越前府中城跡

丸岡城の後は、府中三人衆の城跡に。まずは前田利家の越前府中城跡。

越前府中城の築城年代は定かではないが、朝倉氏の府中奉行所があったのが始まりとされる。織田信長が越前を平定した後に柴田勝家の与力として越前府中に配された府中三人衆の一人・前田利家によって改修された。江戸時代には越前松平家の付家老の本多家が入城し維新まで続いたが、明治以降は市街地に没して遺構は残っていない。武生市役所からJR武生駅前一帯が城だった。



①石碑
越前市役所玄関脇にある「越府城趾」の石碑。




2013/07/05

丸岡城

夏の18切符5つ目は、また福井。別の日の平日(節電休暇という名の全社員強制有給取得)に行ってきた。まずは現存12天守の丸岡城。

丸岡城は連郭式の平山城で、勝家の甥の柴田勝豊により築城された。その後、越前の支配者が次々と替わっていくものの丸岡城は生き延びて、維新の廃城令・空襲でも天守のみ残った。ただし、残ったのは本当にその天守と周辺の石垣のみで、堀も全て埋め立てられ、小高い丘に天守だけがポツリと立っている。
その天守も1948年の福井大地震で倒壊。倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。
え、倒壊したのに現存天守?と思ったけど、よく考えたら修復工事も一度分解して再度組み立てているから、それと同じか。
ちなみに、映画「戦国自衛隊」では丸岡城が春日山城として用いられた。

丸岡城へは福井駅と丸岡駅からバスが出ているが、福井駅から本丸岡行きのバスに乗り、丸岡城停留所で降りてすぐ。ただし、そのバスの終点の本丸岡停留所に着いても降りずに、折り返した後の停留所になる。
帰りは本丸岡停留所から丸岡駅行きに乗ったが、客は自分1人。この路線は本数が少ないので、いつ廃線になってもおかしくない。


①丸岡城遠景
西三の丸跡(現在は普通の市街地)から見た丸岡城本丸。平山城と言っても、かなり低い丘陵地であることがわかる。





2013/07/04

越前大野城

福井城跡の次は、九頭竜線に乗って越前大野城に。

越前大野城は標高249mの亀山に築城された梯郭式平山城。越前一向一揆を平定した恩賞として信長から越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近が築城。その後、金森長近は飛騨高山に転封し、越前大野城の城主はたびたび替わった。江戸時代には越前松平氏を経て土井氏が城主となり、そのまま維新を迎えた。維新後は建造物は全て取り壊され、石垣のみが残された。

とにかく九頭竜線が不便すぎる。18切符での移動で特急を使わなければ、大阪から始発に乗っても福井着は9:51になる。で、九頭竜線への乗り継ぎはというと、何と12:49発まで列車が無い! その前の列車が9:08発で、どう頑張ったところでその列車には乗れない。3時間半も列車が無いのなら、もう少し乗り継ぎの利便性を図ったダイヤにしてくれてもいいのに。
(逆にわざと不便にすることで、サンダーバードに乗せようという魂胆なのかも知れないが)



①藩主隠居所(移築)
越前大野駅から西に向かうと、まず幕末の藩主・利忠の隠居所がある。




2013/07/03

福井城跡

北ノ庄城跡の次は、それを飲み込むかたちで新たに築城された福井城跡へ。

福井城は輪郭式の平城。関が原の戦い後に越前に入封された家康の次男・結城秀康が、北ノ庄城跡に新たに築城。「北」の字が縁起が悪いとして、後に北ノ庄から福居へ、そして福井に改名された。御家門の居城にふさわしい大規模な城であったが、維新後は内堀以外の堀は埋められて市街地として整備され、さらに福井大空襲で遺構はかなり失われた。



①本丸石垣南面
福井城の大手側。本丸跡には現在は県庁・警察・議事堂が建っている。




2013/07/02

北ノ庄城跡

昨夏の18切符4つ目は越前方面の城攻め。まずは柴田勝家の北ノ庄城跡。

北ノ庄城は、一向一揆を平定した功績によって信長より越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が築城した。一説によると、安土城に匹敵する壮大な天守閣を持つ居城であったといわれている。勝家はこの城を本拠に北陸方面の平定を図るが、秀吉に敗れた後は、この城の建造物のほぼ全てが焼失した。
江戸時代になり、この城跡の上に福井城が築城されたため、遺構がほとんど残っておらず、詳細は不明である。


①柴田勝家像
柴田神社境内にある。



2013/07/01

岡豊城跡

18切符での四国城めぐりもラスト、高知城の次は長宗我部元親の居城・岡豊城跡へ。

岡豊城は標高97mの岡豊山に位置する連郭式山城。
鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃より土佐へ移住し、土佐長宗我部氏が始まった頃に築城されたと言われる。兼序(元親の祖父)の時代に一度落城するが、国親(元親の父)の時代に復帰。元親は土造りから石造りの城に大改修を行い、この城を拠点に四国を統一した。
しかし元親が四国統一したころには、信長が近畿を支配しており信長と対立。信長軍の四国遠征の直前に本能寺の変が起こり一度は難を逃れるも、次の覇者・秀吉の四国征伐軍に敗れて土佐一国に押し込められた。秀吉に膝を屈した元親は本拠を浦戸城に移し、岡豊城は廃城となった。

岡豊城跡の最寄り駅はJR土佐大津駅。岡豊城跡はそこから少し距離があり、しかも城跡への入り口が駅とは反対の北側。その北側へ行くために城跡のある岡豊山の東側の道路を通っていると、西の岡豊山方向へ行く山道があった。そこから城跡に行けそうと登ってみたら、その山道は山腹の墓地で行き止まり。そこからさらに西へ行けそうな獣道っぽいようなところも無かった。
ただでさえ駅から遠い上にこういう無駄足をしてしまったため、同じ距離を歩いて帰る体力も無くなってしまった。城跡のすぐ北側に歴史民俗資料館があり、そこから高知駅までバスがあったので、帰りはそのバスに乗って高知駅に逆戻りした。



①岡豊城跡遠景
岡豊城の南側には国分川が流れており、天然の水堀となっていた。