2013/07/14

米子城跡

18切符での城攻めは日帰りが基本なのだが、昨夏は四国だけでなく、山陰へも泊まりがけで出かけた。まずは天守が2つあった米子城跡。

米子城は、吉川広家が標高90mの湊山に築いた梯郭式平山城。月山富田城を居城にしていた広家は湊山に新城を築いたが、その途上、関ヶ原の戦いで敗退して岩国へ転封される。替わって伯耆に入封した中村一忠が米子城築城を継続し、米子城を完成させた。このとき、吉川広家の作った天守の隣に新しい天守を作った。
維新後は民間に売却されたが維持できず、大小天守とも解体され風呂屋の薪となったとのこと。風呂屋の薪って、何ちゅう勿体無いことを…

朝一の列車に乗って、一つ目の城が午後になったのは初めて。本当に大阪からは遠かった。
これだけ遺構が立派に残っていても、ここは日本100名城には指定されていない。湯築城跡を選ぶぐらいなら、こっちだと思うけどなー。



(1)米子城跡遠景
城跡は米子駅に近くて普通に歩いて行ける距離。駅から城跡に向かって歩いていると、進行方向の先に米子城跡が見えてくる。





(2)二の丸枡形虎口
湊山北東側の山麓には二の丸跡があり、その東は巨大な枡形虎口となって道路と面している。

(3)二の丸枡形虎口から二の丸への石段
枡形の内側から石段で二の丸へ上がる。

(4)旧小原家長屋門
市内の小原家にあったものを二の丸跡に移築した。


(5)二の丸跡
山麓にある二の丸跡。現在はテニスコートとなっている。


(6)内膳丸虎口
二の丸跡からの登城路を登って行くと分岐路に出る。その分岐路を左(南)に行くと本丸に行くが、まずは右(北)に行って内膳丸へ。



(7)内膳丸下段跡
内膳丸は本丸の北側にある曲輪。中村一忠の家老・中村一忠の家老横田内膳正村詮が担当し構築したため「内膳丸」と呼ばれる。
内膳丸は2段になっている。


(8)内膳丸上段跡
二重櫓数棟と武器庫が設置されていた。

(9)内膳丸上段跡からの眺望
米子港が間近に見える。

(10)番所跡
内膳丸跡から戻り、分岐路の逆側を進むと本丸東側の腰曲輪に出る。ここには番所跡があった。



(11)本丸石垣と天守台石垣
番所跡近くから本丸石垣および天守台を見上げる。本丸石垣は二段になっており、その上に天守台が築かれている。




(12)副天守台石垣
本丸石垣の南側に隣接している副天守台の石垣。吉川広家が築いた四層の天守が建てられていた。
しかし吉川時代の古い副天守台のなずなのに、見るからに新しい打込み接ぎ。おかしいなあと思って調べたら、幕末に積み直されたらしい。


(13)鉄御門跡
本丸から大手側の出入口。天守の入り口を固めるため、鉄張りの堅固な門が築かれていた。右側に見えるのは副天守台石垣


(14)本丸跡
鉄御門跡から上がると本丸跡に出る。

(15)天守台
中村一忠が新たに築いた独立式望楼型4重5階の天守が建てられていた。
正面に見えるのは大山。


(16)天守台から北西側の眺望
正面に見えるのは米子港。


(17)天守台から見る内膳丸跡
天守台から北側を見ると、先ほど行った内膳丸跡が見える。

(18)天守台から見る副天守台
天守台の南側にある副天守台。石垣の高さとしては副天守台の方が高いが、高さそのものは天守台の方が高い。

(19)副天守台から見る天守台
天守台は野面積み。

(20)本丸搦手虎口
本丸西側にあり、水手御門に続く。


(21)水手御門跡
かつては、ここから山麓の船小屋へ続く道があった。


(22)飯山出丸跡への階段
湊山を東側から下山して、道路を挟んだ隣にある飯山にある飯山出丸へ。

(23)飯山出丸跡
湊山と国道を挟んだ隣にある山に築かれた出丸。毛利家が支配する前の山名時代は、この飯山に城を築いていた。


(24)飯山出丸跡遠景
飯山出丸跡を北側から見る。


(25)米子城案内図






[米子城跡マップ]


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