2013/07/09

鳥取城跡

昨夏の18切符は丸岡城が5つ目で、お盆前に終了してしまった。まだ夏の18切符の期間が結構残っているし、さらにお盆休みも残っている。ということで18切符を追加購入し、6つ目は鳥取城跡へ。

鳥取城は、標高263m(比高259m)の久松山頂の山城部(山上の丸)と、山麓の平山城部(山下の丸)からなる梯郭式の城郭。
戦国時代中期に因幡山名氏・山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したのが始まり(但馬山名氏・山名祐豊の付城として築城したという説もある)。その後、山中幸盛や毛利元春、羽柴秀吉等に攻め落とされ、何度も城主が交代する。その秀吉による「鳥取の飢え殺し」は有名で、兵糧を高値で買い占められた後に秀吉軍に包囲され、開城した。
鳥取城はその後に城主になった秀吉配下の宮部継潤により大改修。山上や山麓に石垣・櫓を配し、近世城郭の基礎を築いた。しかし関ヶ原で西軍についたため改易。関ヶ原の戦いの功で入封した池田長吉、その後の池田光政により山麓部分を大改修して拡張。現在の城跡の多くは江戸期の遺構となる。
ややこしいが、長吉と光政、そしてその後に入城した光仲は別系統の池田家(いずれも池田恒興を祖とするが)。長吉系は因幡鳥取の後は備中松山へ、光政系は播磨姫路から因幡鳥取に来てそして備前岡山へ、光仲系は入れ替わりに備前岡山から因幡鳥取へ。このように池田家は外様でありながら、三家が大名として存続していた。

維新後は全ての建造物は払い下げられ、残された石垣も1943年の鳥取大地震で多くが崩された。しかし国の史跡に指定されたのを機に修復が行わた。さらに2006年から30年かけて幕末期の姿へ復元する計画があり、訪れた時は中之御門大手門登城ルートが工事中であった。

最寄り駅は鳥取駅。18切符で移動したのだが、途中の智頭急行は私鉄なので別料金発生。津山経由だとJRのみで行けるが、遠回りの上、本数が少ないので智頭急行を利用した。



(1)鳥取城跡遠景
鳥取市街地から見た鳥取城跡のある久松山。鳥取駅から城跡の近くまでバスがあるが、バスを待っている間に着くような距離なので歩いて行った。





<大手登城路ルートでの山下の丸>
鳥取駅が鳥取城跡の南西側にあるので、鳥取駅から歩いて城まで行くと南側の大手登城ルートから登城することになる。



(2)内堀と丸の内跡
内堀の内側には丸の内があり、そこには米蔵や武器蔵が建ち並び、一部の有力町人も出入りが許されていた。
丸の内跡のうち大手道より南側は、現在、鳥取西高校のグラウンドとなっている。


(3)内堀と擬宝珠橋(復元)
内堀には橋が二本架かっているが南側の橋が大手橋となる擬宝珠(ぎぼし)橋。
擬宝珠橋は中ノ御門に続いている


(4)中ノ御門跡
擬宝珠橋を渡った正面には中ノ御門跡となっている。往時は枡形構造となっていて、二の門は櫓門だった。
2006年から始まった復元工事では、ここが枡形に戻る計画で、櫓門も復元するかも。


(5)太鼓御門石垣
大手道は中ノ御門から入って太鼓御門を通る。桁行22m、梁行4.5mの堂々とした櫓門だった。


(6)三の丸跡
太鼓御門跡より大手道を進んで右(南)側は三の丸跡になる。ここには城跡の定番・学校(鳥取西高校)が建っていた。
江戸時代前期まで城の中心は二の丸で三の丸には隠居した藩主の居城があったが、江戸中期よりこちらに御殿を築き、三の丸が鳥取城の中心となった。



(7)二の丸石垣
大手登城路から見上げる二ノ丸石垣。


(8)巻石垣と天球丸石垣
大手登城路をそのまま進むと二の丸跡へ行くが、そこから右(南)に逸れて、天球丸手前の曲輪から天球丸を見る。
球面型の石垣が巻石垣で、天球丸石垣の崩落を防ぐために江戸時代の終わり頃に築き足されたもの。最近になって復元された。


(9)楯蔵跡
天球丸より一段下の曲輪の南端にあった楯形に曲がった小さな平櫓。



<搦手ルートでの山下の丸>
山上の丸に行く前に、大手登城路とは別ルートの内堀の北側の土橋から鳥取城へ入る搦手ルートを。


(10)内堀
北側に架かっている土橋から、南側の内堀を見る。向こうに見えるのが、大手登城路となる擬宝珠橋。


(11)北ノ御門跡
池田長吉が大改築するまでこちらが大手門だったが、改築後に搦手門とされた。




(12)中仕切門(復元)
1975年に強風のため倒壊した。


(13)二の丸石垣
中仕切門から入ってしばらく直進し、二の丸石垣の前でUターンして二の丸裏御門へ行く。

(14)三階櫓跡
二の丸の北西隅には三階櫓があった。
1692年に山上の丸の天守が焼失した後は、この櫓が鳥取城を象徴していた。明治になって解体。


(15)二の丸裏御門跡
三階櫓跡の北側に二の丸裏御門跡があり、ここから二の丸に入る。


(16)二の丸跡
右側にあるのが三階櫓跡でその手前から上がってきた。
江戸時代前期はここが鳥取城の中心だった。


(17)二の丸内部から見た三階櫓跡


(18)菱櫓跡
土台の石垣から推測すると平面は菱形をしていたと思われる。


(19)表御門跡
二の丸南東隅にある表御門は二ノ丸への大手出入口。大手登城路から登城すると、ここから二の丸に入る。
正面奥に見えるのが天球丸石垣。




(20)天球丸跡から見た二ノ丸跡
表御門跡から出て、天球丸跡へ行き、そこから二の丸跡を見る。正面に見えるのが表御門跡、左側が菱櫓跡。
菱櫓跡の手前に石段があるが、その石段が大手登城路で、中ノ御門から入るとここに出てきて、そして表御門から二の丸に入る。


(21)天球丸跡
二ノ丸より一段上、山下の丸での最高所にある天球丸。池田長吉の姉・天球院がこの曲輪に住んでいたことからこの名前が付いた。


(22)天球丸跡より南西側の眺望
右下に巻石垣、左側に楯蔵跡、その向こうに三の丸跡(鳥取西高)が見える。
山麓部の山下の丸ではあるが、それでもなかなかの眺望である。


(23)山下の丸案内図



<山上の丸>
天球丸跡から久松山山頂にある三上の丸に登っていく。


(24)中坂登城道
二ノ丸から山上の丸に行く大手道だが、これぐらいの急で狭い階段状の道があるだけ。


(25)中坂登城道

(26)山上の丸虎口
中坂登城道を登りきると木が開けて、幅の広い石段となる。ここが三上の丸への虎口となる。

(27)二ノ丸跡
中坂登城道から登ると、二の丸跡の南西隅に出る(写真右下)。右(東)側に二の丸が広がり、左手(西)を登ると本丸跡となる。

(28)三ノ丸跡
二の丸跡を東に行くと、一段低い三の丸跡に出る。

(29)本丸跡
山上の丸虎口から左に少し登ると本丸跡が広がっている。周りの木も少なく、絶景が広がる。

(30)車井戸
池田長吉が城内大改築の時に掘った井戸


(31)本丸から南西側の眺望
この日は良い天気で、靄も少なく絶景が広がっていた。これは南西方向の鳥取市街。

(32)天守台
本丸北西部にはさらに一段高い天守台がある。

(33)天守櫓跡
まるで地面が宙に浮いているような眺望。
この上に建てられていた天守は1692年に落雷により焼失。以後再建されなかった。



(34)天守櫓跡から西側の眺望
天守台の周りには邪魔ものがほとんど無く、360度とまではいかないが、270度ぐらいの大パノラマが広がる。
鳥取市街の向こうに日本海が広がっている。

(35)天守櫓跡から北側の眺望
ここから鳥取砂丘も一望できる。あれだけ広範な砂漠でも、ここから見るとわずかの広さでしか無い。
この日は絶好の天候だと思ったが、さらに条件が良ければ日本海の向こうに隠岐も見えるらしい。



(36)三上の丸案内図
鳥取城が本城となった武田高信の頃やその後に城主となった山名豊国の頃は、鳥取城の中心はこの山上の丸に西側の急峻な尾根に築かれた曲輪であった。










[鳥取城跡マップ]


より大きな地図で 鳥取城跡 を表示



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