田辺城も細川藤孝が築いた城で、始めは宮津城を本城としていたが、後にこちらを丹後経営の中心とした。関が原の戦いのときには、西軍の1万5千人もの大軍で包囲されるが、50日間守った城として有名。このとき、忠興が大多数の兵を率いて関ヶ原に行っていたので、守兵はわずか500人程度であった。
京極高知が入封すると本拠を宮津城に移して田辺城は一旦廃城となるが、高知死去後は三人の子供に分割相続されたため、田辺城は再興された。
現在、田辺城跡は舞鶴公園になっており、二層櫓と大手門が再建されている。
①大手門(再建)
本来の内堀だった場所に再建された。同じ再建するなら、本来の場所に再建すればいいのに。
櫓門の2階部分は資料館となっている。
②天守台
大手門から入って右手にある。
野面積みの石垣は天正年間の築城当時のものと言われる。
③二層櫓(模擬)
大手門から入って左手には模擬櫓がある。田辺城の隅櫓を模して、本丸跡石垣の上に建てられた。
④本丸跡
二階櫓前から本丸跡を見る。
⑤本丸井戸跡
背後の本丸石垣に半円形の凹みがあった場所を発掘調査によって確認。
⑥本丸北側の石垣
本丸北側の石垣を本丸の外(すなわち内堀を埋め立てたところ)から見る。
大手門の石垣に比べて古い野面積み。
⑦外堀跡
市街地には外堀跡と思われる水路が多かった。
次の復元図のように実際の外堀はもっと広かったので、一部は埋め立てられ一部が水路として残ったものと思われる。
⑧田辺城城郭復元図
復元図の本丸あたりが舞鶴公園で、本丸北側の石垣が現在も残っている。ただし大手門は本丸西側の内堀の位置になる。
水堀が多い城で、この水堀は幅狭にはなっているものの、結構水路として残っている。
[田辺城マップ]
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