2014/04/27

小牧山城跡

岩村城跡からの帰りに小牧山城跡に寄ってみた。
小牧山城は、愛知県小牧市にある標高86mの小山に建てられた山城で、織田信長が美濃攻めのために築城、清州城から居城を移した。
美濃攻略後はさらに岐阜城に居城を移したため廃城となったが、小牧・長久手の戦のときに家康がここを改修して陣城を築いた。

現在は公園として整備されすぎていて、天守が無いのに模擬天守を築いたり、登城路なのか後世になって作られた自然歩道なのか、曲輪跡なのか広場なのか、よく分からない。



①小牧山城跡遠景
名鉄小牧駅から西に向かうと、前方に小牧山城跡が見えてくる。


2014/04/20

岩村城跡

この春の18切符2つ目は岩村城跡へ。
岩村城は、岐阜県恵那市岩村町にある梯郭式山城で、付近は霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれる。また標高721mは日本で一番高い山城で、備中松山城・高取城とともに日本三大山城と呼ばれている。

この地は鎌倉時代より岩村遠山氏が治めていおり、当時は平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであった。それが戦国時代末期に本格的な山城となり、遠山氏最後の城主・景任は織田方について武田方の秋山信友の攻撃を守りぬいた。遠山景任が没すると、信長の五男を養子とし、信長の叔母にあたる景任夫人が女城主として差配を振るった。しかし再度、秋山信友が攻めてくると、景任夫人は信友の妻となることを条件に開城、養子の信長の五男は甲府に送られた。これに激怒した信長は、長篠の戦いで武田勢が弱体化した後に岩村城を奪還し、信友夫妻らを逆さ磔で処刑した。
その後に城主となった河尻秀隆が改修し、さらに本能寺の変後にこの地を治めた森氏の家老・各務元正により、現在の城郭が完成した。江戸時代も岩村藩の居城として生き残り、維新後の廃城令で城は解体され石垣のみとなった。



(1) 岩村城跡遠景
城跡の北側にある城下町から岩村城跡を臨む。この辺りは重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、城下町の雰囲気がよく残っている。


2014/04/17

利神城跡

平福陣屋の北東に位置する利神城は、標高373mの利神山山上にある連郭式の山城。
平福は朝霧の名所であり、江戸時代初期にあった天守が霧の上に浮かんだ偉容から雲突城とも呼ばれた。

利神城は南北朝時代に赤松氏一族の別所敦範によって築城された。
戦国時代に入ると、織田軍に属していた尼子勝久家臣・山中鹿之介により攻め落とされるが、毛利氏により上月城が落とされれると、毛利方の宇喜多直家の支配となる。
関ヶ原後の播磨には池田輝政が入封し、利神城は甥の由之に与えられた。由之は三重の天守を構え、曲輪を全て石垣で築くなど、城を大改修した。その後、輝政の6男・輝興が城主となり平福藩が立藩するが、輝興が赤穂藩を継ぐと平福藩は廃藩、利神城は廃城となった。

現在も石垣等は残っているが、史跡の指定を受けておらず、かなりの部分で崩落している。そのため、危険ということで入山禁止らしい。



①霧の利神城跡遠景
この日、平福陣屋跡へ立ち寄るために智頭急行・平福駅で下車したときには朝霧が発生しており、雲突城と言われるとおり、霧の上に山城跡が浮かんでいた。




2014/04/12

平福陣屋跡

関西から若桜鬼ヶ城跡へ行くと若桜鉄道の接続が非常に悪く、郡家駅で数時間待ちが発生するので、途中下車して平福陣屋跡へ寄り道。

因幡街道の宿場町として栄えた平福は、江戸時代初期までは北東に位置する利神山にあった利神城から支配していたが、利神城の廃城後は平地に平福陣屋が建てられた。
現在は表門だけ残っていて、陣屋跡は民家と駐車場になっている。


①表門
現在は表門のみ現存している。



2014/04/03

若桜鬼ヶ城跡

この春の18切符の一発目は因幡の若桜鬼ヶ城へ。
標高452メートル(比高252メートル)の鶴尾山山頂部から尾根部分に曲輪群を設けた連郭式山城で、鳥取城、鹿野城とともに因幡三名城に数えられる。

若桜鬼ヶ城の正確な築条時期は不明だが、鎌倉時代の初期に地頭としてこの地に来た矢部暉種が築城したと考えられている。当初は東側を流れる八東川の西岸の小高い丘に居館を構えていた程度であったが、南北朝騒乱期に鶴尾山の尾根上に詰城として拡張した。
戦国時代は山名氏に属すが、尼子氏再興を目指す山中鹿之介により落城し、山名氏は滅亡した。その後、毛利氏が奪ったあとまた秀吉が奪い、鳥取城攻めの拠点となった。現在の石垣等の山頂部の遺構は、この時に城主となった木下重堅時代のものと考えられる。関ヶ原の戦い後は、山崎家盛を経て、鳥取城主・池田光政の領土となり、一国一城令により廃城となった。



(1) 若桜鬼ヶ城跡遠景
若桜駅近くから見た若桜鬼ヶ城跡