2013/11/30

龍野古城

龍野城背後にある鶏籠山を登り、龍野古城跡へ。

龍野古城は標高211.7mの鶏籠山山頂にある山城で、戦国初期に赤松氏により築かれた。その後四代80年近く赤松氏が支配していたが、信長の中国進出に伴い秀吉が2万の軍勢を揖保川対岸まで侵攻すると、城主赤松広英は戦わずして投降。以後、秀吉の重臣が代々城主となる。
江戸時代になると山麓に城が築かれ、山頂の城は廃城となった。



①削平地
削平地には、兵営・矢倉・米蔵などが配置されていた。




2013/11/27

龍野城

2011-12冬の18切符の5つ目は、まず龍野城。

戦国時代は背後にある鶏籠山の山頂に城があったが、江戸時代になりこの地に入封していた京極氏が丸亀に移転するときに破却された。その後、この地に入封した脇坂安政は、山頂の城を破棄、山麓に居館部のみの陣屋形式の城郭を築いた。
これらの建造物は明治に入ってから全て破却されたので、当時の遺構としては石垣のみ。
現在の建造物は全て戦後に再建されたものである。



①大手埋門(櫓門)と隅櫓
龍野城の最寄り駅・本竜野駅から北西に歩くいて行くと、大手埋門に着く。
表からは埋門とは思えないぐらい立派な櫓門に見える。完全な復元ではなく一部推定らしい。



2013/11/23

福知山城

竹田城跡の後は、福知山城へ。
福知山城は、京都府福知山市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地に築かれた連郭式平山城。その地形の姿から臥龍城とも呼ばれる。

福知山地方の国人塩見氏が八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われている。現在のような縄張りの福知山城を築いたのは明智光秀。丹波平定後に築いて、女婿の明智秀満を城主とした。その後、関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城した有馬豊が、近世城郭として大改修を行った。
維新後は廃城令により廃城。建物は払下げとなり二の丸の台地は削り取られ、遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなりった。

現在は、福知山城公園として整備され、三重の大天守と二重の小天守が昭和61年に復元された。




①登城路
福知山城の北東側に登城路があり、そこから登城する。ただし、昔の縄張り図を見ると、この部分に通路は無さそうなので、右手の塀および石垣は模擬?



2013/11/16

竹田城跡

さらに遡って、2011-2012年冬の18切符での城攻め。
18切符を利用したのは実はこの時が初めて。その初の18切符は竹田城跡。

竹田城は、播但道および山陰道を見下ろす標高354メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれた梯郭式山城。縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城とも呼ばれる。また、しばしば円山川の川霧により霞むことから、最近は天空の城とか日本のマチュピチュとも呼ばれている。

竹田城は守護大名の山名宗全が築いた城で、太田垣氏を城主とした。やがて太田垣氏は山名氏から独立した勢力となったが、戦国時代も末期になると織田と毛利の大勢力の争いに巻き込まれ、いずれかの勢力に降伏や落城を繰り返した。本能寺の変で信長が死亡して秀吉の天下になった後は、赤松広秀を城主にして竹田城を改修。現在の石垣積みの城郭を築いた。赤松広秀は関ヶ原では西軍に属したため、戦後に切腹、竹田城は廃城となった。



①竹田駅
大阪から始発に乗っても、竹田着は9時過ぎ。雲海は早朝に発生するから間に合わないと思っていたが、この時間でもまだ雲海が残っていた。大急ぎで、竹田城のある背後の山に登る。


2013/11/09

津山城

庭瀬城跡の次は津山線で北上して津山城へ。
津山城は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山に築かれた梯郭式平山城。姫路城・松山城とともに日本三大平山城に選ばれている。

室町時代に美作国の守護大名であった山名氏が鶴山に鶴山城を築いたのが始まり。しかし応仁の乱で山名氏が衰退すると廃城となった。
江戸時代に森忠政(有名な蘭丸の弟)が18万6千石で入封すると、鶴山城跡に津山城を築城、5層の天守及び櫓や城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ大規模な近世城郭で、往時は広島城の76棟、姫路城61棟に次ぐ櫓の多さであった。
その後、森氏は断絶、広島藩浅野氏預かりになった後、親藩の 松平宣富が入封。幕末まで松平氏が城主であった(またもや外様大名が心血を注いで築いた名城を親藩・譜代が横取りするパターン)。

明治後の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみとなった。
現在は鶴山公園として整備され、また平成に入ってから備中櫓が復元された。



(1) 津山城遠景
吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線としている。



2013/11/07

庭瀬城跡

撫川城跡に行ったついでに、すぐ東側にある庭瀬城跡にも行ってきた。

庭瀬城は、関ヶ原の戦功により旧領を回復した戸川達安が撫川城の曲輪の一部を利用して築いた平城。
戸川達安は宇喜多秀家の重臣であったが、関ヶ原の戦では主家を裏切り、東軍に付いていた。戸川氏の4代目が夭折して嗣子なく断絶した後は、久世氏が入城。また戸川分家も再興して撫川城に入城していたので、わずかの距離に2人の藩主が住んでいたことになる。




①庭瀬城跡と堀
堀とか水路を除いてはほとんど城跡らしい遺構は残っていないが、その中で清山神社の北側は唯一、城跡っぽい。


2013/11/05

撫川城跡


2012年春の18切符5つ目は岡山県。まずは撫川(なつかわ)城跡。

撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な沼城で、備中国の備中松山城の城主・三村家親が備前国の宇喜多直家に備える為に築かせた。三村氏滅亡後は毛利氏の出城となり、 秀吉の備中攻めの際には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなる。備中高松城の攻防時に秀吉軍により落城し、その後は宇喜多氏の支配下になるが、秀吉と毛利との和解後に廃城となった。
江戸時代に入り、戸川氏が撫川城の東に庭瀬城を築いたが、その戸川庭瀬藩は4代で改易。分家の戸川逵富が5000石で再興し、撫川城本丸跡に陣屋を築いた。



①本丸跡西側の石垣と堀
高さ4mの高石垣が現存している。




2013/11/03

紀伊田辺城跡

2012年春の18切符4つ目は城攻めとは関係なく白浜に行くつもりだったが、紀伊田辺駅で1時間ぐらい接続待ちが発生したので、その間に紀伊田辺城跡に行ってきた。

紀伊田辺城は会津川の東河口に築かれた平城。
関ヶ原の戦いの後、紀州に入封した浅野家の家老・浅野知近が田辺に入り、紀伊田辺城を築いた。その後、徳川頼宣が紀州藩主になると、付家老・安藤直次が田辺領主となり田辺城を改修した。

現在では田辺大橋の東側橋詰めのすぐ側にある小さな錦水公園の一角に水門跡と石垣がわずかに残っているだけである。



①水門跡
錦水公園の北端に石段があり、そこを降りた先が紀伊田辺城の水門跡。遺構はこの一角にのみ残っていた。