津山城は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山に築かれた梯郭式平山城。姫路城・松山城とともに日本三大平山城に選ばれている。
室町時代に美作国の守護大名であった山名氏が鶴山に鶴山城を築いたのが始まり。しかし応仁の乱で山名氏が衰退すると廃城となった。
江戸時代に森忠政(有名な蘭丸の弟)が18万6千石で入封すると、鶴山城跡に津山城を築城、5層の天守及び櫓や城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ大規模な近世城郭で、往時は広島城の76棟、姫路城61棟に次ぐ櫓の多さであった。
その後、森氏は断絶、広島藩浅野氏預かりになった後、親藩の 松平宣富が入封。幕末まで松平氏が城主であった(またもや外様大名が心血を注いで築いた名城を親藩・譜代が横取りするパターン)。
明治後の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され天守台・石垣のみとなった。
現在は鶴山公園として整備され、また平成に入ってから備中櫓が復元された。
(1) 津山城遠景
吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線としている。
(2) 三の丸跡南東の櫓台?
橋を渡り宮川に沿って北上すると、いかにも櫓台のような石垣があった。
しかし後で地図と見比べると、ここは三の丸から少し東に外れていて、ググっても櫓があったという情報は見つからなかった。
(3) 三の丸石垣
城の南側は見事な高石垣で固められている。
(4) 三の丸冠木門跡
津山城への入り口にあたり、鶴山公園の出入り口にもなっている。
4/1〜15まで津山さくらまつり期間とのことでのぼりとかがあったが、この年の桜の開花は遅く、桜はまだ蕾。
(5) 三の丸への虎口
冠木門跡から入って左に180度Uターンして三の丸跡へ向かう。
(6) 二の丸南西面の土塁
三の丸跡に入り、二の丸石垣を右手に西に進むと、この部分だけ何故か石垣が切れて土塁となっている。
奥に見えるのが、二の丸南面の石垣でその上に鉄砲櫓があった。
(7) 昇櫓台
さらに西に進んで、二の丸の南西隅にあった昇櫓台を見上げる。
(8) 二の丸石垣
二の丸の西面も高石垣に覆われている。
(9) 表中門跡
三の丸跡を戻って三の丸虎口の北側にある表中門跡へ。
表中門は三の丸から二の丸への大手門にあたる櫓門。櫓の東側は袖石垣上に乗り、西側は鉄砲櫓の高石垣に取り付いていた。
この日は津山さくらまつり期間で、ここで民謡踊りのイベントがあったが、はっきり言って邪魔。
(10) 表中門右手の石段
表中門から入ってすぐ右手の石段。この上も曲輪跡となっている。
(11) 備中櫓(復元)
表中門から二の丸跡に入ってすぐ近くにある走櫓跡から備中櫓を見る。
備中櫓は本丸南西端に位置する二重櫓。初代藩主・森忠政の娘婿である鳥取藩主・池田備中守長幸が津山城を訪れるのを機に造られたので、こう呼ばれている。
往時から天守とともに津山城のシンボル的な櫓であった。
(12) 二の丸跡から見た備中櫓
二の丸跡を西進して備中櫓を見る。
左下にあるトイレが邪魔。もう少し目立たないところに立てればいいのに。
(13) 天守曲輪石垣
本丸の西側にある天守曲輪の西面の高石垣。この上には多門櫓があった。
(14) 切手門跡
二の丸跡を戻り、表中門跡の北側にある切手門跡へ。ここには二の丸から表鉄門へ至る通路を仕切る櫓門があった。
ここは本丸へと続く大手道であるが、表中門から入って石段を上がり左折、さらに石段を上がり左折して四足門から二の丸に入り、Uターンしてから右折とジクザクに進まされ、かなり防御を意識した構成となっている。
(15) 弓櫓跡
切手門から入り石段を上がって振り返る。切手門の南側には弓櫓があった。
(16) 辰巳櫓跡から西側の眺望
さらに石段を上がて東に進むと辰巳櫓があった。ここは東端なので、ここから西側の眺望を見る。
下に見えるのが天然の堀としていた宮川。
(17) 鼓櫓台と十四番門跡
辰巳櫓の北側には十四番門があり、その左には鼓櫓があった。
(18) 東側石垣
十四番門から入ると本丸東側の帯曲輪に行く。津山城東側の宮川へ至る急斜面は高石垣では無く、石垣を何段も重ねている。
(19) 表鉄門跡
十四番門跡から出て元の大手道に戻り、西に進むと表鉄門跡に行く。
表鉄門は本丸への入り口にある櫓門で、門扉全体が鉄板で覆われていたことからその名がある。
(20) 本丸虎口
表鉄門から入り左折して石段を上がると本丸に入る。本丸には御殿があったが、その入口は表鉄門2階の櫓部分の西端。つまり表鉄門から入って石段を上がりすぐ左に180度Uターンして御殿に入る。御殿はそこからコの字型に本丸虎口を回りこんでから北に広がっていた。
(21) 太鼓櫓台
本丸跡に入り、右側へ180度Uターンした本丸南東隅近くには太鼓櫓があった。
(22) 本丸跡
本丸跡を西に進み、南西端にある備中櫓に入る。写真はその備中櫓から見た本丸跡。
(23) 備中櫓内2階
備中櫓は本丸御殿指図に描かれており、全室畳敷きで、戦闘用の櫓というより御殿の一部として機能していた。2階には櫓内で最も格式の高い「御上段」が設けられている。
(24) 備中櫓2Fから南側の眺望
(25) 天守曲輪跡
本丸の西側に天守台があるが、その天守台の周りは石垣で区切られていて、天守曲輪となっている。写真左側にあるのが五番門跡で、本丸から天守曲輪に入る入口になる。
(26) 天守曲輪虎口
天守台より南東方向を見る。
奥に五番門があり手前に六番門があった。その奥の備前櫓とは櫓門を通じて繋がっていた。
(27) 天守台
この上に4層5階の層塔型の天守があった。高さは石垣を除いて22mで、一般的な五層の天守と比べても大きかった。
(28) 天守台から西側の眺望
(29) 七番門跡
天守曲輪の北側から裏中門へ経由して二の丸へ抜ける搦手がある。二の丸から直接天守曲輪に侵入されないよう防御のための巨大な櫓門があって、門の上には二重の多門櫓となっていた。また、ここの外側とは2mもの段差があり、梯子を使って登る必要があった。(戦闘時には梯子を外して簡単に侵入できないようにしていた)
(30) 粟積櫓台
また本丸跡に戻り、北東方向に進んだ先にある櫓跡。本丸北東隅に位置し、天守台と同じくらいの高さがあり、その上には逆L字型の二重櫓が乗っていて小天守とも呼ばれていた。
(31) 粟積櫓台より北東側の眺望
(32) 月見櫓台
粟積櫓の南側には月見櫓があって、2つの櫓の間には十一番門があった。ここを降りて南に行くと(18)の本丸東側の帯曲輪に行く。
(33) 裏切手門跡
本丸北西部には搦手へ出る裏切手門があった。裏切手門から出るとすぐ裏鉄門があり、写真はその裏鉄門跡から見た裏切手門跡。

(34) 裏中門跡
裏鉄門を出ると、本丸と二の丸の間にある帯曲輪に出る。その帯曲輪から石段を降りた右手に裏中門があった。
(35) 裏中門跡辺りから見上げる
(36) 色付櫓台
裏中門を出ると二の丸になり、その二の丸から帯曲輪の北西隅の色付櫓台を見上げる。
(37) 天守曲輪北西隅櫓台
帯曲輪石垣に沿って二の丸を南に行くと、石垣が高くなり天守曲輪石垣となる。この上には多門櫓が乗っていた。帯曲輪石垣越しに七番門跡が少し見える。
写真右側に見える天守曲輪石垣は(13)の天守曲輪石垣である。
(38) 紙櫓台
二の丸跡を北側に戻り、北西隅の石段を降りた先から、二の丸北西隅の紙櫓台を見る。
(39) 肘櫓台
紙櫓台と石段を挟んで南側にあるのが肘櫓台
(40) 白土櫓台
二の丸石垣に沿って南に進んだ先に、白土櫓台がある。さらに進むと(8)の写真の場所に行く。
(41) 鶴山公園出口
二の丸から石段を降りて、北に進むと鶴山公園の出口となる。ここは津山さくらまつり期間とGW期間を除けば出口専用である。
出口の左にあるのは(38)の紙櫓台。
(42) 大戸櫓台
出口から二の丸石垣を右手に見て東に進む。正面やや左手に見える高い石垣が大戸櫓台である。
(43) 薬研堀と北西側の石垣
城の北側には薬研堀があり、その薬研堀越しに津山城を見る。
正面の石垣が大戸櫓台で、その奥のさらに高い石垣が粟積櫓台。
(44) 復元(?)土塀
津山駅は津山城の南側にあり、普通に津山城に向かうと、この石段を通って行くことになる。両側の土塀は復元なのか、模擬なのか。
(45) 移築城門
津山城内にあった門で、現在は津山城の東にある大隅神社の山門となっている。
津山城より先にこちらに寄ったため、(44)の石段からではなく、(1)のように吉川の東側からの城攻めとなった。
(46) 津山城案内図
[津山城マップ]
より大きな地図で 津山城 を表示
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