2014/05/25

白地城跡

春の18切符のラストは白地城跡へ。
白地城は阿波国三好郡白地(徳島県三好市池田町白地)にあった山城。

白地城は四国の中央部の山間地に立地し、阿波・讃岐・伊予・土佐いずれの国にも通じる道の交差点にあたる場所にあり、そのため四国を制覇する長宗我部元親の拠点となった。
しかし現在は城跡に温泉宿が建設され、遺構はほとんど破壊されて残っていない。その温泉宿が建設された昭和後期までは曲輪や堀など遺構が多く残っていたらしい。

戦前にあるいは戦争で失われたのならまだあきらめもつくが、昭和後期(恐らく自分が生まれた後)まで遺構が残っていたのを破壊されたと聞くと、すごく腹が立つ。長宗我部元親の四国制覇の拠点で、歴史的にも重要な城なのに。


①白地城跡遠景
白地城跡の最寄り駅は三縄駅だが、一個手前の阿波池田止まりの列車に乗って、これ以遠の列車の本数がかなり少ないので、そこから歩いて行った。その途中から見た白地城跡の遠景。右側の山の中腹に白い建物が見えるが、これが白地城跡に建てられた温泉宿。




2014/05/17

七尾城跡

春の18切符での石川県の城攻めの二日目。小丸山城跡の次は、この城攻めの本命・七尾城跡へ。
七尾城は、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上の通称「城山」にあり、その尾根から枝分かれする尾根にも無数の砦を配置した大規模な連郭式山城である。七つの尾根に築かれた城ということから七尾城と呼ばれた。

七尾城は能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428-1429年)頃にこの地に築いたと思われる。当初は砦程度の規模であったが、戦乱の時代になり増築・拡張され、能登国に侵攻した上杉謙信にによる攻撃にも、一年にわたって持ちこたえるほど強固な城となった。このときに外からの攻撃には耐えぬいたが、内部の対立による内応のため開城した。七尾城はその後、織田の支配下に入り前田利家が城主となるが、小丸山城へ本城を移して廃城となった。

石垣を始め、当時の遺構がかなり残っており、国の史跡に指定されている。また日本五大山城のひとつに数えられている。



(1) 七尾城跡遠景
七尾城へは七尾駅前から市内循環バスにて。「城史資料館前」バス停付近から、七尾城跡を見る。


2014/05/11

小丸山城跡

春の18切符での石川県の城攻め。
二日目は能登まで足を伸ばして、前田利家が築いた小丸山城跡。

織田信長より能登一国を与えられた前田利家は七尾城に入城するが、山城で利便性に難があるため、七尾港に近い小丸山に平山城を築いた。
その後に秀吉が柴田勝家を滅ぼすと、加賀半国を加増された利家は金沢城(当時は尾山城)に本拠を移した。小丸山城には城代が置かれるが、江戸時代に入ると一国一城令のため廃城となった。



①小牧山城跡遠景
JR七尾駅から七尾線に沿って西に向かうと、すぐに小牧山城跡が見えてくる。


2014/05/04

鳥越城跡

この春の18切符3つ目と4つ目は、一泊二日で石川県の城攻めへ。まずは加賀の鳥越城跡。
鳥越城は、石川県白山市にある標高312mの山に築かれた連郭式山城。

織田信長による加賀一向一揆討伐の最中、白山麓山内衆の一向一揆の拠点として築城された。1580年に織田方の柴田勝家軍によって落城し、城主の鈴木出羽守を始めとする鈴木一族は滅ぼされた。しかし、その後も白山麓一向一揆は続き、攻防戦が展開されたが、1582年勝家の甥である佐久間盛政によって鎮圧された。

現在は国の史跡に指定されており、櫓門・門及び一部の石垣が復元されている。




(1) 鳥越城遠景
鳥越城跡へは北陸鉄道の終点・鶴来駅からバスに乗って上野バス停で下車。そこから南に向かって歩いて行くと、正面に城跡のある山が見えてくる。