2013/05/31

観音寺城跡 (2013)

この春の18切符での城攻めに戻り、二度目の観音寺城跡。
この城跡には案内人が必要だと一度目で痛感したので、この日は「観音寺城を探検する2012」というイベントに参加してみた。ここ数年、それなりに城攻めをしているが、ほとんど1人で行動しており、この手のイベントに参加するのは初めて。

このイベントでは、一度目とルートが異なり、観音寺城跡東側の川並口筋を登っていく。
前回は西側の薬師口筋からで、近い西側の遺構でさえ、かなり見落としがあった。ここは案内板等が全然無いので、よほど事前に調べないと見落としてしまう。


(1) ぷらざ三方よしから見た繖山
集合場所であるぷらざ三方よしから見た繖山。この繖山に観音寺城が築かれていた。



2013/05/30

観音寺城跡 (2011)

この春の18切符では行き先が滋賀が多かったが、これも滋賀で、18切符3日目は観音寺城跡。ただし観音寺城跡には二度目の城攻めなので、その投稿の前に2011年に行った一度目の方を先に投稿。

観音寺城は標高433メートルの繖(きぬがさ)山の山上に築かれ、安土城以前では珍しい総石垣造りの山城。
観音寺城が歴史に登場するのは南北朝時代。佐々木(六角)氏頼が観音寺に篭ったと「太平記」に記述があるが、このときは砦のようなものだったと思われる。その後、応仁の乱でもここで何度も攻防戦が行われる。佐々木六角氏が居住する城として本格的に整備されるのは16世紀前半になってから。1000箇所以上の曲輪を持ち、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城となった。
しかし織田信長が足利義昭を擁して上洛するとき、支城である箕作山城と和田山城が落城すると、城主の六角父子は戦わずして観音寺城から逃亡。観音寺城はそのまま廃城となった。

観音寺城は大きいだけに登城路は何通りもあるが、この日は先に安土城跡を攻めたので、西側からの薬師口筋から攻略した。
ここに来る前に安土城跡にも行っていたこともあり、西側の遺構を見ただけで引き返した。東側の遺構は最初から無理だと思っていたが、その西側の遺構もかなり見落としがあった。観音寺城跡には案内板等がほとんど無く(伝本丸跡に少しあるだけ)、ある程度事前に調べただけでは全く歯がたたなかった。
(ということで2年後の2013年春に再び観音寺城跡を攻めたが、それは別投稿で。)



①観音寺城跡西側からの遠景
安土城跡から少し南の地点より観音寺城跡のある繖山を見る。安土城跡と観音寺城跡との間にはJR東海道線が走っている。



2013/05/29

横山城跡


小谷城跡の次は横山城跡へ。

横山城は姉川南の横山丘陵(臥竜山)の最高所(312m)に築かれた山城で、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城した。横山城の名前が有名なのは姉川の戦いでだろう。この戦いでは、横山城の抑えとして待機していた別働隊が浅井軍を側面から攻撃して織田軍の勝利に貢献した。織田軍が勝利すると横山城は降伏し、小谷城攻略の拠点として秀吉が城番として入場した。小谷城落城後は廃城になったと考えられる。

最寄り駅はそれぞれ異なるが駅から遠いので、レンタサイクルを利用した。帰りは借りた河毛駅に返す必要はなく、横山城跡の最寄り駅である長浜駅に返せるのはすごく便利。




①横山城跡遠景
北から見た横山城跡の遠景




2013/05/28

大嶽城跡


小谷城跡の投稿では六坊跡からそのまま清水谷に降りているが、実際には降りる前に大嶽(おおづく)城跡へ寄った。

大嶽城は標高495m、比高395mの小谷山の山頂に築かれた山城。小谷城の曲輪というより小谷城の支城的な位置づけなので、小谷城跡とは別に独立した城跡としての投稿で。
大嶽城は浅井氏初代亮政に築かれ、当初は小谷城の主郭が置かれていた。織田軍との戦いでは援軍としてやって来た朝倉氏の軍勢が守ることが多く、朝倉氏により改修された。小谷城落城時も朝倉軍が守っていたが、織田軍により攻め落とされる。この敗戦により朝倉氏の援軍は越前に引き上げるが、それを織田軍が越前まで追走。小谷城落城より先に朝倉氏が滅亡した。



①山王丸跡から見た大嶽城跡
小谷城主郭部で最も高い山王丸跡でも標高約400mなので、それよりさらに約100mも高い。
そのまま登ってもしんどいのに、一度、六坊跡まで少し降りることになるので、より一層疲れた。




2013/05/27

小谷城跡

この春の18切符で行った城、続いて小谷城跡。これは鎌刃城跡とは別の日に行った。

小谷城は標高495mの小谷山(伊部山)から南の尾根筋にかけて築かれた梯郭式山城。
京極氏の被官から北近江の支配者へとのし上がった浅井亮政(長政の祖父)が築城した。堅固な山城として知られたが、三代目の長政の時に信長に攻められ落城した。その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。

ちなみに小谷城は日本100名城および日本五大山城に選ばれており、その名に恥じない遺構が数多く残っている。



(1) 清水谷から見た小谷城跡
小谷城のある小谷山は南側に大きな谷があり、逆V字のようになっている。その南側にある清水谷から見た小谷山。正面が小谷山の山頂で、小谷城は南東側の尾根(写真右側)に築かれている。写真右側の尾根にこぶが2つあるが恐らく奥が山王丸跡で手前が本丸跡。



2013/05/26

鎌刃城跡

先ほどの若狭湾周辺の城跡には青春18切符を利用して行った。足(車)が無い自分は、城攻めには公共機関を利用しなければならなく、離れた場所の城跡に行くのにはこの青春18切符を重宝している。
ということで、この春に18切符で行った城跡の写真をアップ。まずは鎌刃城跡から。大阪から比較的近いけど、それでも18切符を使った方が安いw

鎌刃城は標高601mの八葉山の西側の尾根の西端(標高384m)に築城された連郭式山城。
江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから「境目の城」として文献に登場し、幾度と無く争われた。織田家と浅井家が争うようになると、鎌刃城の城主だった堀氏は信長に降り対浅井家の最前線となるが、浅井家滅亡のしばらく後に廃城になったと思われる。鎌刃城は要所要所を石積みで固められた、かなり大規模な城だということが近年の発掘調査で分かった。

鎌刃城跡への登城路は、主に城跡の北にある蓮華寺近くから尾根筋を歩いて行くコース、西番場近くの大手口から尾根筋に合流するコース、城跡の西側近くまで車道で登るコースの3通りがあるが、一番歩く距離が短い2番めのコースで登った。また鎌刃城跡は最寄りの米原駅から離れていてバスもほとんど無いことから、麓まではレンタサイクルを利用した。




①大手口
名神高速の下を通って少し進んだ先にある。ただし、名神高速の下の通路は一見塞がっているように見える(山から動物が降りてくるのを防ぐため?のネットで覆った扉がある)のと、名神の下から出ると正面右手に整備された山道があり、そのままの流れでそちらに進むと行き止まりになることに注意。この山は鎌刃城跡の手前にある小山で、城跡とは全然関係無い小山。




2013/05/25

金ヶ崎城跡


小浜城跡後瀬山城跡へは敦賀経由で小浜線で行ったので、その敦賀では金ヶ崎城跡にも行ってきた。

金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した海抜86メートルの金ヶ崎山に築かれた山城。源平時代に平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。
南北朝時代には、九州から東上してきた足利尊氏軍に敗れた南朝方が再起のために金ヶ崎城に入城。その後に新田義貞も入城した金ヶ崎城の堅い守りは北朝方の攻撃を半年間持ちこたえるが、兵糧攻めにより落城した。
朝倉家の支配下だった戦国時代は、信長の越前侵攻時にあっさり開城。しかし浅井長政の寝返りにより、信長はこの地より京に命からがら撤退する。有名な金ヶ崎の退き口である。
朝倉家を滅亡させて越前を平定した後は、平地に敦賀城を築城して金ヶ崎城は廃城となった。
南北朝時代と戦国時代の二度に渡って、歴史の大舞台に立った城はこの城ぐらいか。




①金ヶ崎城跡遠景
南東方向にある廃線跡から金ヶ崎城跡のある金ヶ崎山を望む。海岸側はかなりの急峻で、守りの堅さが伺われる。




2013/05/24

後瀬山城跡


京極高次が小浜城に移る前に入城した後瀬山城は、背後の標高168m、比高160mの後瀬山山頂に主郭を配置した山城。室町時代に若狭国守護・武田元光が築城した。戦国時代になると朝倉家を滅ぼした織田家が若狭を支配。その家臣である丹羽長秀が城主となって城を補修、現在の縄張りとなった。江戸時代になって小浜城が完成すると、後瀬山城は廃城となった。


①後瀬山城跡遠景
JR小浜駅の裏手にあり、小浜駅のある北東側から後瀬山城跡を見る。





2013/05/23

(若狭)小浜城跡


もう一つの方の若狭にある小浜城跡には、昨年の夏に行ってきた。
小浜城は、関が原の戦の功で若狭国に入封した京極高次が、山城の後瀬山城では不便ということで海岸沿いに築城した輪郭式平城・海城。しかし完成前に京極家は転封、替わりに入封した酒井忠勝が完成させた。
酒井家のもと明治維新を迎えたが、維新後の工事中に失火し城の大部分を焼失。天守は焼失を免れたが、ほどなく売却撤去された。
現在は市街化の波に飲まれ、本丸の三分の二ほどが残るのみで、その部分には小浜神社が建っている。




①天守台及び小天守台
天守台の北東側には小天守台があり、さらにその外側に小天守台への階段がある。






2013/05/22

(摂津)小浜城跡


GW後半に行った小浜城跡。小浜城と言えば若狭が有名だが、これは摂津にある。読み方も若狭のが「オバマ」なのに対して、摂津のは「コハマ」。
伊丹台地の西端に位置し、寺内町として発展する。南西北の三方を迂回する大堀川に囲まれる地形に加えて、残る東側に溜池を掘り土塁を築いて城塞化し、戦国時代は一向宗勢力の拠点となった。
荒木村重謀反時には信長方について難を逃れたが、ここの寺から秀次に側室を出したため連座責任として秀吉により焼き討ちされた。その後の江戸時代には、有馬などの街道が通る交通の要衝のため宿場町として発展した。
名前の由来は平安時代に周辺が陸化するまでは、ここが瀬戸内海が深く入り込む浜だったことから。宝塚に近いここまで海があったというのが驚き。


①北門跡
橋の対岸の付け根あたりが北門跡。大堀川が深い谷のため、天然の要害となっている。




2013/05/20

野間城跡


丸山城跡地黄陣屋跡より2kmほど南側にある野間城跡。平安時代末期に多田源氏の流れを汲む野間高頼によって築かれたと伝えられる山城。戦国時代にも野間氏が在城していたと伝わっているが、それ以外はほとんど歴史に登場しない。

Wikipediaにもわずか数行しか記述されていないドマイナーな山城で、入り口がわかりにくく、その近くにゴミが不法投棄されていたりして、あまり期待できない城跡だった。
しかし実際に行ってみると、思ったより規模が大きく遺構もしっかりと残っていた。



①野間城跡遠景
北側の麓から見た野間城跡。山頂ではなく尾根線上に築かれているので、どこが主郭か分からない(^^ゞ




2013/05/19

地黄陣屋跡

丸山城跡の南東数百メートルほど先にあるのが、能勢氏が丸山城から移った地黄陣屋跡。現在はその跡に能勢町立東中が建っているが、当時の石垣が残っている。

関ヶ原の戦で功のあった能勢頼次は旧領1万石余をあてがわれ、ここに新たな城と城下町を築いた。1万石程度なので陣屋扱いだが、西、南、北を石塁で固め、北隅には三層の楼閣を築いた立派な陣屋城であった。



西側石垣
バス道に沿って石垣が並んでおり、バス停に到着する前に既にテンションが上がる。






2013/05/18

丸山城跡


今までGoogle+をメインに使っていいたが、先日の仕様変更でアルバム管理が制限されて非常に使いづらくなってしまった。それで城攻め関係の写真はGoogle+で無く、BLOGで管理しようと思い、新たにBLOGを作ってみた。BLOGタイトルは仮題。もう少しいい名前が思いついたら、変更する。

しばらくは過去の城攻めの写真を投稿していくが、まずはこのGWに行った北摂のマイナーな城からで、丹波との国境に近い丸山城跡。能勢電で終点の妙見口駅まで行って、そこからさらにバスと言う辺鄙な場所で、大阪府とは思えないような場所だったw

摂津国能勢郡の丸山城は尾根先端に突き出た標高278メートル、比高約40メートルの丸山という残丘上に位置する平山城。摂津源氏の源頼国がこの地に入部して苗字として能勢氏を名乗り、丸山城を築いたと云われている。
戦国時代に入り、荒木村重が信長に反旗を翻した際に村重に従うが、その後明智光秀の幕下となる。本能寺の変ではそのまま光秀に従ったため、秀吉軍に攻められて能勢氏は領土を失う。しかし関が原の戦で東軍に属して戦功があったため旧領を回復。大坂の役でも加増されて地黄陣屋を築き、丸山城は廃城となった。




丸山城跡遠景
丸山城跡を南東方向から見る。かなり小じんまりとした丘陵に築かれていて、大軍で攻められたらひとたまりもない。