2013/05/27

小谷城跡

この春の18切符で行った城、続いて小谷城跡。これは鎌刃城跡とは別の日に行った。

小谷城は標高495mの小谷山(伊部山)から南の尾根筋にかけて築かれた梯郭式山城。
京極氏の被官から北近江の支配者へとのし上がった浅井亮政(長政の祖父)が築城した。堅固な山城として知られたが、三代目の長政の時に信長に攻められ落城した。その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。

ちなみに小谷城は日本100名城および日本五大山城に選ばれており、その名に恥じない遺構が数多く残っている。



(1) 清水谷から見た小谷城跡
小谷城のある小谷山は南側に大きな谷があり、逆V字のようになっている。その南側にある清水谷から見た小谷山。正面が小谷山の山頂で、小谷城は南東側の尾根(写真右側)に築かれている。写真右側の尾根にこぶが2つあるが恐らく奥が山王丸跡で手前が本丸跡。





(2) 大手道入り口
南東尾根筋にある大手道の入り口。山城らしくなく、ある程度幅があってゆるやかな勾配がほぼ一直線に続く。それでは防御的に弱そうだが、そのために尾根筋に沿って何重にも曲輪が築かれている。

ちなみにここは松茸山ということで、9/15から11/30まで入山禁止と書いてあった。その時期に来ていたら完全に無駄足になるところだった。(まあ、その時期は18切符の時期では無いので、重なることは無いがw)


(3) 出丸虎口
主郭尾根の最先端にある曲輪。独立した砦となっており、出丸の北側で小谷城と繋がっている。
大手道を進むと、この出丸の北側で車道に合流する。出丸は南側なので、この車道に沿って少し南に戻る。

(4) 出丸跡
出丸は二重の土塁と二段の曲輪からなっており、その遺構が見事に残っている。写真は上段の曲輪。


(5) 出丸から清水谷方向を見る
尾根最先端と言いつつ、ここでも結構な高さがある。


(6) 出丸案内図
小谷城跡の各遺構には、このような往時の姿が描かれた案内図があり、非常に分かりやすかった。


(7) 金吾丸跡
四段の曲輪と土塁からなっており、1525年に六角高頼が小谷城を攻めた時に越前の朝倉金吾教景がここに布陣したことから、名付けられた。


(8) 金吾丸北側
写真のように金吾丸は大手道よりかなりの高さがあり、本丸に向かうために一度降りなければならなかった。


(9) 番所跡
ここより、いよいよ小谷城の主要部。
その入り口には番所があったと言われる。
歩いてきた大手道とは別に、この近くまで車道が来ている。


(10) 番所案内図



(11) 御茶屋跡
小谷城主郭部最先端の曲輪。名前と違って、軍事用の設備。


(12) 御馬屋跡と馬洗池
高い土塁が三方を囲んだ構造を持つ曲輪。名称通り馬小屋があったかは不明。手前にある馬洗池は、馬を洗った池というより、桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐための水堀。


(13) 御馬屋跡から見た桜馬場の土塁
御馬屋跡の北側には桜馬場があるが、その土塁の規模が大きい。

(14) 首据石
初代亮政の時代、六角氏との合戦の際に敵方に内通した今井秀信の首をここに晒したと伝えられている。


(15) 桜馬場跡
大広間黒金門の手前にある南北に長い曲輪。信長の本陣があった虎御前山を見張るのに最適だった。


(16) 浅井氏及家臣供養塔
桜馬場に建っている供養塔


(17) 桜馬場跡からの眺望
左に見える低い山が織田軍の付城で、小谷城落城時には信長の本陣があった虎御前山。


(18) 御茶屋・御馬屋・桜馬場案内図



(19) 黒金門跡
大広間に通じる重要な門。名前から鉄を打ち付けた扉であったと考えられる。


(20) 大広間跡
別名「千畳敷」と呼ばれる長さ約85m・幅約35mの小谷城最大の曲輪。大広間には御殿が建ち、井戸や土蔵があった。


(21) 本丸石垣と本丸への虎口
高さ約4mの石垣が積まれていた。


(22) 本丸跡
南北二段の構造で、北側の上段に櫓を付属する中心建物が建っていたと考えられる。


(23) 本丸・大広間案内図


(24) 大堀切
本丸の北側にある深さ10m×幅15m×長さ40mからなる大規模な堀跡。
小谷城の主郭部は大堀切で南北2つに分断されている。北側の曲輪はこの堀切があることで、南側の曲輪で食い止め強固に守られる反面、南北間の戦力の柔軟な運用を難しくしている。

(25) 中丸跡(一段目)
中丸は南北三段から成っており、最上段に刀洗池がある。この池の縁を通って上段の京極丸につながる。


(26) 中丸三段目虎口跡
中丸の二段目と三段目の間には小規模の石垣が現存し、この曲輪も基本的には石垣で固められていたと考えられる。


(27) 中丸案内図


(28) 京極丸虎口跡
中丸最上段から見た京極丸虎口。


(29) 京極丸跡
京極丸は南北四段からなる曲輪で、旧主京極氏の屋敷があったと伝承されている。


(30) 京極丸西側曲輪
京極丸には四段の曲輪に加えて西側にも曲輪があって、その西側の曲輪を見下ろす。
この曲輪のさらに下に水の手があり、秀吉の軍勢は清水谷からその水の手を経由して攻め上がり京極丸をを占拠。これにより長政がいる本丸と長政の父・久政がいる小丸とが分断され、小谷城落城の原因となった。


(31) 小丸跡
小丸は左右2段の曲輪からなり、浅井久政はここで切腹し果てた。


(32) 小丸・京極丸案内図


(33) 山王丸大石垣
山王丸の東側に現存しており、高さは約5m。小谷城で最も壮大な石垣である。


(34) 山王丸虎口跡
破城の痕跡が残っており、石垣が散乱して山王丸へ登る障害となっていた。


(35) 山王丸跡
主郭部の最も北側にあり、標高約400mと最も高いところにある曲輪。四段からなっており、頂上部には神社が祀られていたと考えられている。


(36) 山王丸案内図


(37) 六坊跡から南西側の眺望
山王丸跡の北側にある六坊跡から伊吹山を見る。残念ながらモヤっていて伊吹山がうっすらとしか見えなかった。


(38) 六坊跡
浅井久政の時代に領国内の6つの有力寺院の出張所が集められた場所。


(39) 六坊案内図


(40) 月所丸跡
小谷城から北へ山続きに越前へとつながる「越前忍道」の途中に築かれている。月所丸という名は後年になって地名から名付けられた。


(41) 月所丸跡と土塁
月所丸は東西に長い曲輪だが、その途中に高い土塁が築かれている。


(42) 月所丸案内図


(43) 大野木屋敷跡の石垣
清水谷への谷筋には浅井家重臣の屋敷跡が見られる。これは大野木屋敷跡の石垣。山王丸跡東側の石垣が小谷城跡最大の石垣とあったが、この石垣もそれに劣らなかった。


(44) 三田村屋敷跡の石垣
さらに谷筋を降りて行った先にある三田村屋敷跡の石垣。石碑よりかなり上に石垣がある。


(45) 蛙岩
清水谷への谷筋には岩も多く、いくつか巨大な岩もあった。これはその1つの蛙岩。


(46) 丸子岩
さらに下にある丸子岩。


(47) 竪堀
小谷山の出口近くにある竪堀。


(48) 御屋敷跡
小谷山の谷筋の出口には浅井氏三代の居館があった。お市の方と三人の娘たちも平時はこの館で暮らしていたと思われる。


(49) 小谷城跡清水谷絵図
清水谷の入り口付近で見かけた案内図。東側の出丸跡から小谷城跡に登った。ただ案内図にある現在地から出丸跡への道が分からず、尾根を回りこんで出丸跡の東側から登った。(帰りは六坊から清水谷に下山したら、案内図があった場所より結構先にその道があった)




[小谷城跡マップ]
 (さらに拡大したいときは「地形」から「地図」に変更する)

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