2013/05/25

金ヶ崎城跡


小浜城跡後瀬山城跡へは敦賀経由で小浜線で行ったので、その敦賀では金ヶ崎城跡にも行ってきた。

金ヶ崎城は敦賀湾に突き出した海抜86メートルの金ヶ崎山に築かれた山城。源平時代に平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。
南北朝時代には、九州から東上してきた足利尊氏軍に敗れた南朝方が再起のために金ヶ崎城に入城。その後に新田義貞も入城した金ヶ崎城の堅い守りは北朝方の攻撃を半年間持ちこたえるが、兵糧攻めにより落城した。
朝倉家の支配下だった戦国時代は、信長の越前侵攻時にあっさり開城。しかし浅井長政の寝返りにより、信長はこの地より京に命からがら撤退する。有名な金ヶ崎の退き口である。
朝倉家を滅亡させて越前を平定した後は、平地に敦賀城を築城して金ヶ崎城は廃城となった。
南北朝時代と戦国時代の二度に渡って、歴史の大舞台に立った城はこの城ぐらいか。




①金ヶ崎城跡遠景
南東方向にある廃線跡から金ヶ崎城跡のある金ヶ崎山を望む。海岸側はかなりの急峻で、守りの堅さが伺われる。






②金ヶ崎城址石碑
金ヶ崎山の南側の麓には金ヶ崎宮があり、その金ヶ崎宮の近くに金ヶ崎城址の石碑がある。


③金ヶ崎古戦場跡石碑
金ヶ崎城址石碑から進むと、今度は金ヶ崎古戦場の石碑がある。


④月見御殿跡
金ヶ崎城の本丸跡にあたり、戦国時代の武将が月見をしたと伝えられる。


⑤月見御殿跡からの北西の眺望
目の前に敦賀湾を望み、足元に絹掛の松が見える。こちら側から攻め上るのは絶対不可能だろう。


⑥三の木戸跡
月見御殿跡からの帰りは、南東の尾根線に沿って行く。急峻な金ヶ崎山にあってここだけは緩やかな道なので、防御のための設備があった。まずは南北朝時代の三の木戸跡。堀切となっている。


⑦二の木戸跡
さらに南東に進むと南北朝時代のニの木戸跡がある。この付近で激戦があったと言われる。3つの木戸跡の中では最も堀切の規模が大きい。


⑧一の木戸跡
その東にあるのが南北朝時代の一の木戸跡。金ヶ崎城の最初の関門で、戦国時代の朝倉氏もこれを利用した。


⑨案内図
下の道から来て、時計回りに一周した。




[金ヶ崎城跡マップ]


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[余湖図](参考)

(※余湖図は「余湖くんのお城のページ」から転載させて貰っています)

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