2014/08/31

郡山旧本城

吉田郡山城のある郡山の南側尾根筋にある旧本城跡。
建武3年(1336年)に毛利時親が築城し、毛利元就が郡山全山を城郭化して山頂に移るまで、毛利氏11代・約190年間本城としていた。本丸・二の丸・三の丸を直線的に階段状に並べた、単純な縄張りである。

旧本城への道は、尾崎丸跡手前にあり、そこからまたかなり降ろされる。せっかくかなり登ったのに、この分また登らないとと思うと気が重くなる。




①堀切
旧本城の背後(山頂側)には3本の堀切がある。写真は一番良好な状態で残っている(恐らく)真ん中の堀切。残り2本は埋まってしまってかなり浅くなっており、そのうち1本は堀切かどうかも良く分からない。



2014/08/23

吉田郡山城跡

遠征2日目は毛利氏の本城であった吉田郡山城跡へ。
吉田郡山城は、可愛川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する標高約400m(比高約200m)の郡山に築かれた山城で、城域は郡山全域に及ぶ。

南北朝時代に吉田荘の地頭職として下向した毛利時親は、郡山の南側の尾根上に城を築いて居城とした。
戦国時代に入り吉田郡山城の入城した毛利元就は、城を大規模に改修。本丸を山頂に移し、その周囲に大小270もの曲輪を階段状に連ねて、郡山全体を要塞化した。毛利元就が大内氏の被官であったころ、2から3万と言われる尼子軍に攻めこまれたが、吉田郡山城で守りぬき、援軍に来た大内氏とともに尼子軍を撃退した。(大規模改修したのはこの戦いの後という説もある)
元就・隆元・輝元時代にかけて改修を続けてきた吉田郡山城だが、山城としての限界を感じた輝元は平地の広島城を築いて居城を移した。関ヶ原後に安芸に入封した福島正則の時代に吉田郡山城は廃城となった。
現在、城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。

吉田郡山城へは広島バスセンターからのバスの方が本数が多いが、せっかく18切符があるので芸備線で吉田口駅まで行き、そこから備北交通バスに乗り大浜停留所で下車。ただし、このバスは日曜日は運休しているので注意。




(1) 吉田郡山城跡遠景
南側にある歩道橋から吉田郡山城跡を見る。左奥が吉田郡山城跡の主郭で、右手前の低い山が旧本城跡。



2014/08/17

宮尾城跡

広島城の次は宮島にある宮尾城跡。
実は初日の城攻め予定は広島城だけで、広島に来たついでに厳島神社に寄ってみたら、そのすぐ近くに城跡があった。

宮尾城は厳島北西にある要害山と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた連郭式平山城。要害山という名前の割には現在は低い丘に過ぎないが、当時は城北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面し、水軍の運用も可能な城であったと言う。
大内氏の被官に過ぎなかった毛利元就は、大内義隆が重臣・陶晴賢に討ちとられた際に独立。しかし、当然ながら新たに大内氏の実権を握った陶晴賢はこれを許さず大軍で攻めてくる。普通に戦えば勝てない元就は、厳島に宮尾城を築き陶方の大軍をおびき寄せることに成功し、嵐の日に奇襲して陶晴賢を討ち取った。この厳島合戦により、独立するだけでなく中国地方の覇権を握る礎を築いた。

宮尾城という名に聞き覚えはなくても、有名な厳島合戦で囮となった城なので、気付かず通り過ぎていたら後悔するところだった。


①宮尾城跡北東面
フェリーターミナルから厳島神社へ向かう道中の観光客向け店舗のすぐ背後にある宮尾城跡。要害山と呼ぶにはあまりに低い山ですぐ落城しそうだが、当時はこちらは海だった。



2014/08/09

広島城

この夏の18切符2つ目は広島方面に城攻め遠征へ。
初日一つ目は毛利輝元が築いた広島城で、名古屋城・岡山城と共に日本三大平城の一つに数えられている。また「鯉城(りじょう)」とも呼ばれている。

毛利輝元は中国の覇者・毛利元就の孫で、それまでの本城は吉田郡山城であった。しかし山城では交通が不便なために廃城とし、領国の中心であり水陸双方の交通の要所である太田川河口に新たに本城を築城した。時代は豊臣政権のときで、輝元が上洛したときに感銘を受けた聚楽第を参考にしたと言われ、関ヶ原の前年に完成した。
しかし輝元は関ヶ原で西軍の総大将に担がれたため、敗戦後は防長2ヶ国に減らされて萩へ移り、替わって東軍で活躍した福島正則が入城した。正則は広島城の外郭を整備し、内堀・中堀・外堀を持つ1km四方に及ぶ広大な城となった。その正則はささいなことを咎められ所領を没収され、次に紀伊・和歌山城の城主だった浅野長晟が広島城に入城し、以後、維新まで浅野氏の支配が続いた。
維新後は広島鎮台となり天守などの建物の取り壊しは免れ、さらに第二次世界大戦でも終戦間際まで戦災をも免れていたが、原爆の爆風で倒壊した。

現在は広島城址公園として整備され、天守や二の丸表御門なども復元されている。



①北東二重櫓跡
広島城はJR広島駅の西側1.5km程度の、市電もあるが徒歩圏内。南側が大手だが、広島駅から歩いていくと本丸搦手の東側に出る。
広島城本丸は南北にやや長い方形の曲輪で四隅を天守および櫓で守り、それらを多門櫓や土塀でつないでいた。




2014/08/02

鬼ノ城跡

また18切符の季節になったので、それを利用して城攻め再開。
この夏の18切符一発目は、吉備高原南縁の標高約400mの鬼城山に築かれた鬼ノ城跡。
駅から遠くバスも無い僻地なのでなかなか行けなかったが、今回はレンタサイクルを利用して移動。ただ最寄り駅の服部駅には何も無いので、二つ先の総社駅のレンタサイクル店を利用した。

鬼ノ城は鬼城山の8~9合目あたりの急斜面にさらに高さ約6mの城壁が築かれた神籠石系山城。
7世紀の白村江の惨敗により本土防衛のために築かれたという説が有力であるが、日本書紀等の文献には記載がなく謎に包まれている。



1. 鬼ノ城跡遠景
レンタサイクルでの道中から鬼ノ城跡を見る。この辺りまではほぼ平地なのでスイスイ来れたが、もう少し先からほぼ上り坂オンリーとなり、自転車ではかなりきつかった。