松山城は松山市の中心部、標高132mの勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城で、関が原の合戦での功により加増された加藤嘉明が築城した。その後、加藤氏は転封、替わりに入封した蒲生氏は断絶したため、松平氏が入封して親藩として明治維新を迎える。維新後においても本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはなく、昭和に入り放火や戦災により一部の門や櫓などが焼失したものの当時の遺構がかなり残っている。
現在は21棟もの建築物が重要文化財に指定されており、これは姫路城に次いで2番めに多い。(もっとも姫路城は74棟とまさに段違いの多さだが。)
さらに焼失した建築物も昭和40年代から本格的な木造による復元が行われている。
また日本100名城、日本三大平山城(他は姫路城と津山城)、日本三大連立式平山城(他は姫路城と和歌山城)に選ばれている。
この日に松山に着いたのは夕方で、すでに本壇への入場時間は終了していた。この日は松山で一泊して、夕方と翌朝に松山城を見学。その夕方と翌朝の写真が混在していて時系列としてはバラバラだが、一定のコースに沿って並べてみる。
<二之丸西側から登城>
JR松山駅から来ると城の南西部に着くので、二之丸西側から大手道(黒門口登城道)を通って、松山城へ登城する。
(1) 三之丸跡と本壇
城山南西山麓に三ノ丸跡があり、その周りの堀も現存している。
JR松山駅から歩いて城に向かうと、三ノ丸南側の道路を通るので、三ノ丸と水堀ごしに松山城の勇姿が見えてくる。
(2) 市電と松山城
その道路には市電が走っているので、やっぱり市電と松山城をツーショットで撮りたくなる。
(3) 二之丸西側の多門櫓
三ノ丸跡と城山の間には二之丸があり、ここには藩の中枢としての役割を果たす表御殿と藩主の家族の住居、奥御殿があった。
(4) 槻門跡と西大砲台石垣
二之丸西側を北に進むと、三之丸北側から来る道と合流。そちらが恐らく大手道で、その合流地点には西側を正面とする巨大な櫓門である槻(けやき)門があった。
門の上に二重櫓、その北側の石垣の上には平櫓があり、それが奥の西大砲台石垣まで続く珍しい櫓であったが、明治初期に取り壊された。
(5) 西大砲台石垣
槻門の北側にある西大砲台石垣。高さ21mあり、松山城で最も高い石垣。
(6) 持弓櫓台石垣
この右側の道を登って行くと尾谷門・中門と通って、大手門へ行く。
(7) 土蔵群石垣と東大砲台石垣
持弓櫓台石垣の手前から東を見る。
手前の石垣が土蔵群石垣で、奥に見えるのが東大砲台石垣
(8) 二之丸から本丸への大手道
持弓櫓台から大手門までは山道となる。
(9) 二之丸北側案内図
南の「二之丸搦手へ」とある道から来て、東の「大手門へ」とある先に行った。
(10) 大手道出口近く
大手道を登って行き山道を抜けるとひときわ大きい石垣が見えてくる。この上は大手門内側の枡形空間。
(11) 大手門跡
大手門の内側は巨大な枡形空間となっており、多人数の守備兵を配置できる。
<戸無門から本丸へ>
南北に長い本丸の南側には筒井門・戸無門がある。大手門を抜けるとその近くに出るので、戸無門から本丸の中に入る。
(12) 太鼓櫓(復元)と本丸石垣
大手門跡から中に入り、北を見ると太鼓櫓が見える。
その奥には天守も見えるので、その天守に向かって直進したくなるが、その道は乾門の手前の石垣で行き止まりになる。
(13) 戸無門(重要文化財)
太鼓櫓の南でUターンして(すなわち太鼓櫓から背後を攻撃される)坂を登ると戸無門がある。高麗門の建築様式で、慶長の創建当初から門扉がないので戸無門の名がある。
扉が無いのは筒井門の前の帯曲輪に敵を誘い込み、その敵を攻撃するため。
その左上に見えているのは、筒井門西続櫓。
(14) 筒井門、筒井門東続櫓、筒井門西続櫓(復元)
左下に見える戸無門を抜けると、筒井門の前に出る。
この門は大手から本丸への通路にある重要な門で、その守りを固めるため、東と西に続櫓が置かれている。
(15) 隠門続櫓、隠門(重要文化財)
筒井門東続櫓の東には隠門続櫓と隠門が続いている。櫓門となっている隠門は、ここから出撃して筒井門に達した敵の側背を襲うための埋門。敵からは(14)の写真の奥の石垣で死角になっている。
(16) 外から見た太鼓門(復元)
筒井門から中に入ると、またもや櫓門で防御。
(17) 内から見た太鼓門(復元)
外から見た太鼓門は木が邪魔になって良く見えないので、内側から。
(18) 本丸南側
大手門跡から太鼓門までの門・櫓の位置関係をこの図で整理。
(19) 井戸(再建)
深さ44mもある井戸。戦前までは釣瓶が備えれれ冷水を飲むことも出来たが、戦災で上屋が焼失。戦後、城内で最初に再建された。
(20) 本丸西側より夕焼け
本丸の真ん中ぐらいから西側の眺めが良く、そこからの夕焼けが見事だった。
本壇の櫓・天守群のシルエットと夕日が同時に見える。
左に見えるのは瀬戸内海と由利島。
右のシルエットは、恐らく左から南隅櫓・小天守・大天守。
(21) 本壇南面を見る
本丸をさらに北に進むと、松山城の中枢・本壇に近づく。
その前には松山城のゆるキャラもどきがいた。ググったら、「よしあきくん」というゆるキャラだった。
<本壇周りを外から>
ここではまだ本壇に入らず東側へ行き、本壇の周りを反時計回りに一周してみる。
(22) 艮門東続櫓、艮門(復元)
まず本丸北東にある櫓門と、その艮門を守るための艮門東続櫓がある。
ここから出撃して本丸石垣の下の道沿いに大手口や搦手口の敵を攻撃できる。
(23) 二ノ門南櫓(重要文化財)
本壇南東隅にある二ノ門南櫓。現存で、重要文化財指定。
(24) 天神櫓(復元)
本壇北東隅にある天神櫓。
(25) 北隅櫓、十間廊下(いずれも復元)
本壇北西隅にある北隅櫓と、北隅櫓・南隅櫓とを結ぶ十間廊下。
(26) 南隅櫓、十間廊下(いずれも復元)
本壇南西隅にある南隅櫓と、北隅櫓・南隅櫓とを結ぶ十間廊下。
(27) 多聞櫓、小天守(いずれも復元)
本壇南にある小天守と、小天守・南隅櫓とを結ぶ多門櫓。
(28) 紫竹門、紫竹門東塀、紫竹門西塀(いずれも重要文化財)
西側(乾門)からの敵を防ぐための門で、本丸・本壇への侵入を防いでいた。
<本壇の中へ>
本壇南側にある坂を登り、いよいよ本壇の中に入る。
(29) 一ノ門南櫓、一ノ門東塀(いずれも重要文化財)
本壇南側にある一ノ門南櫓、一ノ門東塀の下の坂を登って本壇入口に向かう。
(30) 本壇への入口
松山城本壇は天守を中心とする城郭建造物群の中枢。
右から一ノ門南櫓、大天守、小天守が見える。
(31) 小天守(復元)
一の門の枡形虎口を見下ろす位置にあるとともに、本丸大手方面や紫竹門を監視する重要な役割を果たす。
(32) 一ノ門(重要文化財)
一ノ門南櫓(写真右)と三ノ門南櫓(写真左)との間にある門。ここから本壇の中に入る。両脇を櫓が固める厳重な構えである。
この日は登城太鼓とともに扉を開けるというセレモニーがあったので、開城時間が来てもまだ開いていない。(スケジュール的にそんなに余裕があるわけでは無かったので、さっさと開けろよと思っていたw)
(33) 三ノ門南櫓(重要文化財)
一ノ門(写真左下)を抜けて左上に見える櫓。この櫓の手前は一ノ門と二ノ門(写真右)に挟まれた枡形虎口となっている。
(34) 二ノ門、二ノ門東塀(いずれも重要文化財)
二ノ門を抜けると、本壇北東部のちょっとした広場に出る。
写真左が三ノ門南櫓で写真右が二ノ門南櫓。
(35) 大天守(重要文化財)
本壇北東部のちょっとした広場から見た大天守。
創建当時にはに五重天守が建てられていたとされ、その後三重に改修。その天守も落雷で焼失し、黒船来航の翌年に落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。連立式3重3階地下1階構造の層塔型の天守。
(36) 三ノ門、三ノ門東塀(いずれも重要文化財)
大天守の東側にある。写真左に少し見えているのが二ノ門で、ここから入ってきた。
(37) 筋鉄門東塀(重要文化財)
三ノ門から中に入った正面にある。
右側奥に見えるのが小天守。
(38) 筋鉄門(復元)
天守広場に入るための門。その名の通り、門及び柱に鉄筋が張られていた。
(39) 天守広場
鉄筋門から天守広場に入る。
松山城は大天守・小天守・南北隅櫓を連結した連立式天守のため、その中央には天守・櫓群に囲まれた広場がある。
(40) 玄関多門櫓、玄関(いずれも復元)
天守広場の北西にある玄関が、天守への正式な入り口になる。(現在は立入禁止)
その玄関に接続しているのが玄関多門櫓で、奥に見えるのは北隅櫓。
(42) 天守広場から見た大天守(重要文化財)
本壇の一ノ門、二ノ門、三ノ門、筋鉄門を通って、ようやく大天守の入り口へ。
ただし石垣に囲まれた地階部分は米蔵だったため、この入口は本来は荷物用の出入り口だった。
大天守の右側が筋鉄門、左側が内門。当時は先ほどの玄関から入り、内門の上の渡廊下を通って天守に入る。
(43) 大天守内部
最上階である三階内部。窓が大きいため、内部でも明るく、そこからの眺めも素晴らしい。
(44) 大天守より南側の眺望
松山城・本丸が見え、その向こうに松山市街が見える。
(45) 大天守より西側の眺望
右手手前に北隅櫓・左手奥に乾櫓が見え、さらにその向こうに瀬戸内海が見える。
(46) 内門(復元)
天守広場の北側、大天守の西側にある門。
(47) 仕切門、仕切門内塀(いずれも重要文化財)
内門から出て右手にある門。ここから出ると、本壇北東部の広場に戻る。
三ノ門・鉄筋門を通らずこちらから天守に向かっても、やはり仕切門・内門を通らなければならない。
(48) 本壇案内図
本壇の建造物の位置関係がややこしいので、これで整理。
図の矢印どおり、一ノ門・二ノ門・三ノ門・鉄筋門を通って大天守へ。そして内門・仕切門・二ノ門・一ノ門を通って外に出た。
門を通る度に90度または180度曲がらされるので常に側面・背面から攻撃される、正に軍事要塞だと言うことが分かる。
<乾門から外に出て本丸東側を>
本丸西側の乾門から本丸の外に出て、本丸石垣の周りを時計回りに半周して松山城を下山する。
(49) 野原櫓(重要文化財)
本丸北西にある二重櫓。
日本で現存数の少ない望楼型二重櫓で、城内最古の建物と言われている。
(50) 乾門、乾門東続櫓(復元)
ここから本丸の外に出る。
乾門とその続櫓は本丸搦手防衛の重要な拠点で、奥に見える乾櫓とともに強力な防衛ラインを構築している。
(51) 外から見た乾門、乾門東続櫓(復元)
乾門から出た外から振り返る。
大手門から入って太鼓櫓の下から真っ直ぐ本丸を目指したとき、この乾門東続櫓石垣のさらに下辺りまで来て行き止まりとなっている。
(52) 乾櫓(重要文化財)と本丸石垣
乾櫓は本丸北西隅の石垣にたつ二重櫓で、搦手通路を抑える極めて重要な役割を担った。
(53) 野原櫓(重要文化財)と本丸石垣
野原櫓は搦手から本丸下の東側通路に侵入しようとする敵のための拠点。
(54) 本丸石垣越しに見た二ノ門南櫓(重文)
(55) 本丸北側
本丸北側の本壇外側の櫓の位置関係を確認。
(別の場所で撮った写真なので、現在地とあるのはスルーで)
(56) 巽櫓(復元)と本丸石垣
本丸南側の太鼓門の向かいにある櫓。
この通路にいる敵を攻撃するとともに、太鼓門の前までたどりついた敵の背後から攻撃する拠点でもあった。
(57) 隠門続櫓(重要文化財)と本丸石垣
東側から侵入する敵に対して横矢をかけていた。
この辺りの本丸東側の高石垣は、本当に見事だ。
(58) 本丸周辺図
図上の黒門口登城道から上がってきて、南側から本丸に入る。本壇の周りを一周して本壇内部に。そして乾門から外に出て、本丸周りを時計回りに半周して、図下の東雲口登城路から降りた。
ちなみにWikipediaによると、一般・観光客向けのルートは東雲口で、他は地元の人が利用するのみで県庁裏登城道(写真の古図には無い)以外はあまり整備もされていないとか。
深く考えずに選んだ黒門口登城道(大手道)は整備もされていないマイナールートだった。しかし二之丸跡の北西部分にある高石垣を筆頭に見どころが色々あるので、このコースがお薦めだと思う。
東雲口は1日目の下山と、翌日の登城時に利用したが、遺構らしきものが何もなく、全然面白くないコースだった。
[松山城マップ]
より大きな地図で 松山城 を表示
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