高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた梯郭式平山城。
大高坂山には、南北朝時代に大高坂山城があったとされるが北朝側に敗退後に廃城となる。豊臣時代に長宗我部元親が大高坂山に再び城を築き、関が原の合戦後に土佐に入封した山内一豊が現在の縄張りの城を築城した(完成したのは、2代忠義の時代)。しかし江戸中期の享保の大火で、天守を始めほとんどの建物が焼失した。現在残っているものは、その後に再建されたものである。
維新後の廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。
(1) 追手門、追手門西南矢狭間塀、追手門東北矢狭間塀(いずれも重要文化財)
高知城の大手口。当初は大手門と呼ばれていたが、1747年に追手門と改称されたと言う。内枡形門の構造だが、手前に一の門を配置していないので、本来の防御力は発揮されない。
享保の大火で焼失しなかった数少ない建造物。
(2) 追手門から杉の段に向かう階段
追手門から城内に入り、そこから西側にある杉の段に向かう。
(3) 三の丸石垣
杉の段から見た三の丸南東隅の石垣。
(4) 杉の段から見た天守
(5) 鉄門跡
左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。三の丸・二の丸に入るための重要な鉄板張りの門であった。
(6) 鉄門模型
天守内にある高知城模型での鉄門。
(7) 鉄門枡形虎口
鉄門も狭い枡形虎口となっている。
(8) 二の丸へ上がる階段
この階段を上がって、三の丸から二の丸へ行く。
(9) 詰門(重要文化財)
本丸と二の丸の間に建てられた建造物で、二階は本丸と二の丸を結ぶ渡廊下となっている。三の丸から見ると櫓のように見え、渡廊下があるとは思わせない。
(10) 詰門二階の渡廊下入り口(重要文化財)
渡廊下の二の丸側の入り口。ここから本丸へ行く。
(11) 詰門二階内部(重要文化財)
渡廊下となっているだけでなく、兵の詰所にもなっている。
(12) 廊下門(重要文化財)
詰門二階の渡廊下は廊下門の下に繋がっている。仮に敵が侵入してきてもここで上から攻撃出来る。
(13) 東多聞櫓、天守西北矢狭間塀(いずれも重要文化財)
廊下門から本丸に入った、本丸左手(東側)には東多聞櫓がある。
(14) 西多聞櫓(重要文化財)
本丸西側には西多聞櫓が。
(15) 本丸への導線
天守から見た二の丸から本丸北側にかけての導線。右上の二の丸から詰門二階を通って、詰門とT字型になっている廊下門から本丸に入る。廊下門の左右には東西多門櫓があって、本丸を防御している。
(16) 黒鉄門、黒鉄門東南矢狭間塀(いずれも重要文化財)
西多門櫓の南側には黒鉄門があり、そこから本丸南側の帯曲輪へ。
(17) 納戸蔵(重要文化財)
御殿の南側は納戸蔵となっている。
(18) 本丸御殿(重要文化財)
天守に隣接して造られており、江戸時代に天主と同時に焼失し、再建された。
(19) 本丸御殿内部
(20) 現存天守(重要文化財)
天守台がなく本丸上に直に礎石を敷いた独立式望楼型4重6階の天守。創建時のものは1727年に焼失し、20年後に忠実に再建されたといわれている。
御殿から天守内部に入る。
(21) 天守より西側の眺望
本丸ごしに高知市街が見渡せる。
下に見えるのが御殿の屋根、その奥に黒鉄門、右側に西多門櫓。
(22) 三の丸
天守から見た三の丸。下に杉の段から上がってきたときの鉄門枡形虎口があり、左に二の丸へ上がる階段が見える。
(23) 長宗我部期石垣
四国の覇者となった長宗我部元親は岡豊城を本拠としたが秀吉に降伏後に大高坂山に築城して本拠を移す。水害に苦しめられ浦和城に移転するが、その大高坂山に築城した時の石垣が三の丸のすぐ下に埋まっている。
(24) 数寄屋櫓台石垣
二の丸北側にあり、ここからも三の丸から二の丸に行ける。
(25) 数寄屋櫓模型
天守内にある高知城模型での数寄屋櫓。
(26) 二の丸乾櫓台
二の丸北西隅櫓。城内の櫓の中では唯一の三階建てで、さながら小天守のような櫓があった。
(27) 二の丸乾櫓模型
天守内にある高知城模型での二の丸乾櫓。
(28)西側から見た詰門(重要文化財)
二の丸の西側を南下していくと、詰門の反対側が見える。
(29) 太鼓櫓跡へ向かう階段
本丸南西側にあるこの階段を上がると、太鼓櫓跡のある帯曲輪に。そこからさらに本丸西側の鉄門へと続く。
(30) 高知城案内図
(31) 高知城模型
天守にあった模型で高知城全体を見る。
[高知城マップ]
より大きな地図で 高知城 を表示
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