安土城は言うまでもなく織田信長が築城した城で、長篠の合戦で武田勝頼を打ち破った翌年に築城を開始する。現在の安土山に建造され、大型の天守を初めて持つなど威容を誇り、天下統一の拠点となるべく当時の最先端の技術を集めた城だった。
しかしながら本能寺の変の後に炎上、織田信雄が火を付けたと言われている(他に山崎の合戦で敗れた光秀が安土城から引き上げるときに燃やしたとも、六角氏の残党が燃やしたという説もあり)。
当時は城郭が琵琶湖に接していたが、干拓が行われたために、現在は湖岸からやや離れている。
ちなみに天守も無いのに入るのにお金をとられる。また営業時間が9時からなので、それより早く来ても中に入れない(そんなことは全然知らず、危なかった)
(1) 大手道
幅の広い道(階段)が城の入り口からほぼ一直線で続く。防御より利便性を優先させた城ということが分かる。
(2) 伝前田利家邸跡
大手道を進んですぐ右手側にある。写真の空地は前田屋敷の虎口で、屋敷そのものは奥の石垣の上にあった。
(3) 伝羽柴秀吉邸跡(厩)
大手道を進んですぐ左手で、前田屋敷の向かい側にある。写真の空地は秀吉屋敷の厩で、屋敷そのものは写真奥の石垣の上。
(4) 伝羽柴秀吉邸跡(屋敷)
大手道をさらに上がった左手にある。
(5) 大手道を振り返る
(6) 七曲り坂
大手道を上がった先にある坂。
(7) 伝武井夕庵邸跡
七曲り坂を上がる途中の左手にある。
(8) 黒金門跡
七曲り坂の先を右(東)に進むと安土城中枢部に行き、その入り口にあたるのが黒金門。
左(北)に進むと伝長谷川秀一邸跡、右(南)に進むと伝二の丸跡に行く。
(9) 大和織田家墓塔
黒金門跡から主郭部に入って左(北)にある伝長谷川秀一邸跡にある墓塔。
大和織田家と言うのは信長の馬鹿息子・信雄とその子孫の墓。江戸時代に大和に5万石を与えられたことから大和と付いている。その織田家が大和から転封したとき、城下にあった墓を安土城跡に移した。
大和織田家とあるから、清洲織田氏(織田大和守)一族の墓かと思った。信長と敵対していたのに、何故と思ったが、当然それとは関係無かった。
(10) 伝二の丸南側
伝長谷川秀一邸跡から戻って、伝二の丸跡へ行く途中。左手前にあるのが伝二の丸の石垣で、左奥にあるのが伝本丸の石垣。
(11) 伝二の丸跡
(12) 信長廟
二の丸の奥にある信長廟。信長の葬儀をとり行った秀吉が、信長の菩提を弔うために建立したものと言われている。
(13) 伝本丸跡
(14) 天守台へ続く階段
(15) 天守台礎石
一枚前の写真の階段を上がると、写真左上に出てくる。
(16) 天守台から北側の眺望
(17) 主郭部平面図
一般公開されているのは図の色付きの部分のみで、立入禁止部分が結構ある。(発掘調査中のため?)
(18) 総見寺跡
信長が安土築城時に、近隣の社寺から多くの建物を城郭内に移築して建立した寺。江戸時代に本堂など主要な建物のほとんどを焼失した。
(19) 総見寺跡からの眺望
総見寺跡から西側を見る。目の前に見える湖は、琵琶湖と安土山との間にある西の湖。当時は、ここまで琵琶湖があった。
(20) 総見寺三重塔(重要文化財)
安土城の建物は全て焼失したと思っていたから、当時のままの建物が残っていたのは意外だった。
この総見寺が残っているせいで、安土城跡全体が有料になっているとも言えるかも(^^ゞ
(21) 総見寺仁王門(重要文化財)
三重塔から西側の階段を降りた先にある。
(22) 総見寺金剛力士像阿形(重要文化財)
(23) 総見寺金剛力士像吽形(重要文化財)
(24) 百々橋口の階段
仁王門からそのまま階段を降りて行くと、安土城跡の百々橋口から外に出れる。しかし、この出入り口は通行止め。
せっかくここまで降りてきたのに、また城跡を登って行って大手道まで戻らなければならない(^^ゞ
(25) 安土城跡遠景
南側から見た安土城跡のある安土山。
[安土城跡マップ]
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