2013/06/06

備中高松城跡

備中松山城の次は、備中高松城跡へ。
遺構はほとんど残っていないが、水攻めから本能寺の変での秀吉の中国の大返しという歴史的イベントのあった場所なので、訪れてみた。

摂津から播磨方面で苦戦していた信長陣営だが、寝返っていた有岡城・尼崎城・別所城も開城、石山本願寺とも和解(実質的に勝利)と後顧の憂いを絶ち、さらに宇喜多が織田に寝返って、備中に大攻勢をかける。
一方、攻勢にさらされる毛利陣営では山陽道を統帥する小早川隆景から、備前備中の国境に近い7城の城主に対し、激励のためにそれぞれ太刀を与えられた。これらの城主の守る城を備中境目七城と言い、備中高松城はその備中境目七城でも特に中心となる城である。

備中高松城は平城であったが、周囲が低湿地帯のため難攻不落の城であった。そこで秀吉は城の周りに堤防を築き、近くを流れる足守川の水をせきとめての水攻めを行う。ちょうど梅雨の時期で足守川が増水したため城の周りは湖と化した。これにより補給路が絶たれた備中高松城は開城。その直前に本能寺の変を知った秀吉は、ここから中国の大返しを行い、光秀を討って、天下人に上り詰める。
開城した備中高松城には宇喜多氏の家老・花房正成が入城。関ヶ原の戦いで主家とは逆に東軍に付いた花房氏は旗本に取り立てられ、後に転封したときに備中高松城は廃城となった。




①高松城址公園
遺構は何も残っていないが、天然の堀を形成していた城の周囲の低湿地帯を再現している。





②蛙ヶ鼻築提跡
写真では分かりにくいが、身長ぐらいの高さはあった。この部分以外の堤防は鉄道工事時にほとんど撤去されたらしい。


③蛙ヶ鼻築提跡にあった案内図から
現在のJRより北側が水没したことになる。ちょっと信じられないぐらい、広大な範囲が水没していた。


④JR付近から北側を見る
ちょうどこの辺りに堤防を築いていたことになり、ここから奥に見える山の麓まで一面水没していた。



[備中高松城跡マップ]


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