津城は、信長の弟・信包によって築城された輪郭式平城。その頃は安濃津城と呼ばれ五層の天守もあったが、関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受けて城内の建造物の大半を焼失した。その後、伊予今治から移封されてきた藤堂高虎によって城の大改修を行われた。この頃から津城と呼ばれるようになり、以後、維新まで藤堂氏の居城となった。
維新後は廃城令により櫓等の建造物は破却され、現在では本丸・西の丸・内堀の一部を残すのみとなったが、「お城公園」として整備され、藩校有造館の正門の入徳門の移築や模擬櫓を再建している。
①内堀と玉櫓台石垣
ここから西之丸に入る。
②有造館(藩校)入徳門
西之丸に移築された。
③西ノ丸・本丸間の土橋跡
現在は西ノ丸と本丸が一体化しているが、以前は土橋で繋がっているだけで、堀で分かれていた。
④本丸跡
⑤藤堂高虎像
本丸跡天守台の手前にある。
⑥天守台
本丸南西隅にある天守台。藤堂高虎の改修時も新たに天守は築かれなかった。
⑦本丸北側の石垣
本丸跡から北側に積まれた石垣を見る。
津城は、本丸の周りを石垣が城壁のように積まれている。
⑧戌亥三重櫓台
本丸北東隅近くから、城壁のような石垣に上がれる。その石垣の上を西に進み、北西隅の戌亥三重櫓跡へ。
⑨戌亥三重櫓跡から見た本丸跡
本丸が石垣によって囲われていることが分かる。
⑩戌亥三重櫓跡から見た土橋跡と西之丸
⑪模擬丑寅三重櫓
実際に丑寅三重櫓があったのは奥に見える一段高くなった櫓台の上。なぜかそこではなく南側へずれた、この場所に建てられた。櫓台では無いので土台となる石垣の幅も狭く、その分ミニチュアサイズになって、おもちゃみたいにしか見えない模擬櫓。
⑫丑寅三重櫓台
本丸北西隅にある丑寅三重櫓台。何故、ここに建てなかったのか、本当に不思議。
⑬内堀と戌亥三重櫓跡
城の外側から本丸跡を見る。今でも内堀は結構な幅があるが、当時はもっと幅が広かった。
⑭江戸時代終わり頃の津城の様子
現在遺構として残っているのは本丸・天守台・西之丸と内堀の北側・西側。(堀の幅は、かなり狭くなっている)
東之丸と内堀の南側・東側及び外堀は残っていない。
[津城跡マップ]
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