2013/06/28

大洲城

昨夏の18切符での四国城攻め旅行の2日目。松山城の次は伊予大洲に向かい、大洲城へ。

大洲城は鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房が築城したのが始まり。戦国時代になると毛利氏、長宗我部氏、豊臣氏と次々と支配者が替わり、豊臣時代に藤堂高虎、江戸時代初期に洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。
維新後の廃城令でも本丸の天守・櫓の一部は保存されたが、天守は老朽化等により明治21年に解体された。その後、平成になってから天守が木造で復元された。

城では何故か竜馬押し。竜馬の幟があちこちに立っていたが、大洲城と坂本龍馬ってほとんど接点が無かったはず。脱藩したときに大洲藩を通って長州に行ったというのと、海援隊が運用していた「いろは丸」が大洲藩の所有物というぐらい。大洲藩との接点は無いことも無いが、藩との接点も弱い上に城となると全く接点が無い。竜馬は一度も大洲城に登城すらしていないだろう。

いくら大河ドラマでやっていた人気者とはいえ、ほとんど関係無い人で客寄せするのはどうかと思う。せっかくの木造復元天守と重文の現存櫓が泣くいているぞ。



①肱川の河畔に望む大洲城
伊予大洲駅から大洲城へ向かっている途中、紘川に架かっている紘川橋から。





②三の丸南隅櫓(重要文化財)
大洲城三の丸の外堀に面した部分に位置していた。1722年に一度火事で焼失しており、1766年後に再建されている。


③苧綿櫓(重要文化財)
二の丸の東南隅櫓で、現在は肱川堤防上にある。


④下台所
重要文化財の4点以外にも、この建物も遺構建造物である。二の丸南側にあり、当時の食料庫として機能していた。


⑤二の丸跡南側から見た天守
下台所の西から本丸・天守を見る。

⑥二の丸御殿跡
二の丸西側には上下二段にわたって御殿があった。これは上段にある奥御殿跡。(下段にあったのは表御殿)

⑦二の丸跡西側から見た天守
御殿跡近くから天守を見る。

⑧御門番長屋(復元)
曲輪内の仕切り塀の門に付属する長屋で、門番がが詰めていた。絵図をもとに外観を復元。




⑨高欄櫓(重要文化財)
高欄櫓は江戸時代末期(1860年)に再建された。天守の南側に位置し、天守とは渡り櫓で結ばれている。

⑩暗り門跡
本丸は上下二段に分かれており、下の段から上の段への通路には櫓門があった。これはその櫓を支える石垣で、この石垣の左(北)に門があった。


⑪本丸東端から東の眺望
正面に見えるのが駅から城に来るときに渡った紘川橋。

⑫木造復元天主
高欄櫓・台所櫓と渡り櫓で連結した複合連結式層塔型4重4階の天主。
2004年に再建。豊富な資料が残っていたこともあり、往時の姿をほぼ正確に復元。建築基準法で木造では認められない規模であったが、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められた。




⑬台所櫓(重要文化財)
天守の東側に位置する台所櫓も江戸時代末期(1859年)に再建され。天守とは多聞櫓で結ばれており、ここから入って、天守に行く。

⑭台所櫓内部(重要文化財)
重要文化財の中にしては、普通に事務所のように使っていたぞ(^^ゞ



⑮天守内部
台所櫓から渡り櫓で天守の中に入る。木の色が明るい色で、まだ木の香りが残っている。現存の櫓も建てられた直後はこんな色だったのだろうか。
再建された天守は外観だけは似せても内部は違うのがほとんどだが、これは内部もしっかり再現されている。


⑯天守から北側の眺望


⑰高欄櫓内部(重要文化財)
天守から渡り櫓で高欄櫓内部に入る。
木の色がまた濃くなっており、現存の重みが感じられる。

⑱JRの車窓から見える大洲城
大洲城を後にして伊予大洲駅から次の目的地の宇和島城へ向けて出発。
出発してすぐJRが紘川を越えるので、そのときに車窓から大洲城を。


⑲大洲城案内図




[大洲城マップ]


より大きな地図で 大洲城 を表示

0 件のコメント:

コメントを投稿