遠征最終日は標高216mの横山山頂に築かれた岩国城。
関ヶ原の戦いで西軍ながら傍観して東軍勝利に貢献した吉川広家が米子から岩国に移って築城した。
しかし完成からわずか7年後、一国一城令により廃城。広家は周防国内には岩国城しかないと主張したが、毛利本家の意向により山上部分は取り壊された。
広家は関ヶ原で毛利本家を存続させるために徳川に恩を売ったつもりが、毛利本家から見ると広家の裏切りにより西軍が敗北し、そのため3ヶ国に減らされてしまった恨みが残ったためと言われる。
(1) 大手橋(錦帯橋)
日本三名橋として観光客で賑わう錦帯橋は、岩国城と城下町をつなぐ橋として錦川に架けられた。しかし錦川の洪水の度に流失。
3代領主吉川広嘉のときに洪水に耐えられる橋をと5連のアーチ橋の錦帯橋が造られた。
(2) 御土居跡
山麓には領主が住む居館として御土居が造られた。一国一城令で山上の城が取り壊された後も、この御土居は藩政の拠点として使用された。
現在、錦雲閣がある場所には、御三階櫓があった。
(3) 大手道
ロープウェイの山上駅から岩国城までの道は東西2本ある。普通は西側の舗装された広い道を通っていくが、東側の道が当時の大手道ということで、1人だけこちらの道から岩国城へ向かう。
(4) 二の丸石垣
大手道を進むと左手の土手の上に石垣が見えてくる。これが二の丸の石垣。
(5) 出丸石垣
さらに進むと大手道脇に石垣が現れる。
(6) 大手口
(7) 出丸跡
大手門の外側に出丸を築き、外枡形としている。
(8) 大手門跡
出丸跡から大手門跡を見る。
(9) 二の丸跡
大手門から入った先には二の丸がある。
(10) 模擬天守
二の丸の北側には本丸があるが、その本丸の南東側・二の丸に近い場所に模擬天守が建てられている。本来の天守は本丸の奥(北西側)になるが、錦帯橋の背景に天守が見えるようにとこの位置に建てられた。
復興天守と呼んでいる書籍類も多いが、本来無い場所に建てられた天守は模擬天守の扱いのはずでは?
(11) 模擬天守より南東の眺望
模擬天守から表(山陽道)側を見る。
御土居があって、その向こうに錦川と錦帯橋、そして瀬戸内海が見える。
(12) 本丸跡
(13) 本丸北東隅櫓跡?
本丸の北東隅に、いかにも櫓台っぽい地形がある。この向こうは空堀だし、ここに櫓があった?
(14) 復元天守台
本来の天守は本丸の奥(北西側)に天守があった。そこに石垣を積み直し、天守台が復元されている。
(15) 空堀
本丸の北側、北の丸跡との間にはかなりの大きさの空堀がある。当時は石垣があったが、徹底的に破壊されて空堀の底にその残骸が見える。
(16) 北の丸跡
(17) 北の丸石垣の残骸
一国一城令直後は建物だけが取り壊されていたが、島原の乱では廃城となった城跡を利用されて苦戦したため、その後に石垣も含めて徹底的に取り壊された。
(18) 北の丸北側の曲輪跡1
北の丸の北側、一段下にも曲輪があった。
(19) 北の丸北側の曲輪跡2
その曲輪跡のさらに北側にも一段下がって曲輪跡がある。
(20) 北の丸石垣
北の丸は石垣に囲われ、その表側(東側)の石垣は徹底的に破壊されたが、裏側(西側)の石垣は現存している。
この辺りは案内図にも記載されておらず、ここへの道も分かりにくく、見過ごしてしまう人も多いのでは。
(21) 本丸東側帯曲輪跡
北の丸石垣の西側に沿って行き、本丸東側にある帯郭跡へ。
(22) 本丸東側帯曲輪跡から見た模擬天守
この帯曲輪は本丸より一段下にあり、そこから模擬天守を見上げる。
(23) 大釣井
岩国城からモノレールの山上駅まで、今度は西側の道を通って戻る。その途中にある大釣井は、城内最大の井戸で、抜け道伝説もある。
(24) 岩国城案内図
[岩国城マップ]
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