2014/01/18

宇陀松山城跡

この日は奈良県宇陀市にある宇陀松山城跡へ。

宇陀松山城は標高472m、比高120mの古城山に築かれた山城。築城時期ははっきりとわかっていないが、南北朝時代には構えられていたと思われる。また当時は秋山氏が居城としていたことから秋山城と呼ばれていた。
戦国時代末期に豊臣秀長が大和郡山城に入城すると、秋山氏は宇陀から退去。以後、加藤光泰などの秀長の家臣の居城となり、そのころの改修により近世城郭となった。
関ヶ原の戦いの後は福島正則の弟・福島高晴が入城し、さらに大改修を行った。しかし大坂夏の陣において高晴が豊臣方に内通したとして改易、宇陀松山城は廃城、城割された。
その後に入封したのは信長の次男・信雄だが、古城山の麓に居館を造り、城は再建されなかった。

現在では国の史跡に指定され、城割されたというものの、かなり遺構が残っていた。
近鉄大阪線榛原駅でバスに乗り換え。大宇陀行きのバスで終点まで行く。



①松山西口関門
大宇陀バス停は少し行き過ぎたところにあるので、川沿いに北に戻ったところに城下町の出入口にあたる松山西口関門がある。福島時代に建てられたもので、宇陀松山城の唯一の現存建物。






②櫓台
西口関門から城下町に入り、東に進み春日神社に向かうと櫓台がある。
ここには町人地と武家屋敷・城館とを分ける春日門があり、それを構成する櫓があった。春日門は豊臣時代に築かれたが、現存の櫓台は織田時代に再構築されたもので、場所も少し移動している。

③登城口
左の階段を上がると春日神社があるが、ここから右側の脇道に進むと、宇陀松山城跡へ行く。

④登城路
登城路は、かなり整備されている。



⑤横堀跡
登城路を先に進むと、急に周りが開けてくる。木々が途切れた先には城跡を囲むような横堀跡がある。
宇陀松山城跡近くは、木々も下草も綺麗に刈り取られ、遺構がはっきりと確認できる。


⑥大手口1
その先にある宇陀松山城の大手口。大手口は枡形構造が何重にもなっている。

⑦大手口2
何重もの枡形構造になっている大手口の最上部。大手口の正面には本丸の土塁が見える。

⑧西側御加番跡
城の南西部にある大手口から入り、左(北)に進んだ先の左手(西側)には御加番跡がある。ここには城の警護をする御加番衆が詰めていた。


⑨本丸南側腰曲輪
南に戻り、大手口より東側(本丸の南側)には腰曲輪がある。

⑩本丸南側腰曲輪から南東側の眺望
ここから紀伊山地の山並みが綺麗に見える。周りの木々が無いので、遺構がよく確認できるだけでなく、眺望も素晴らしい。他の山城跡も同様になって欲しいものだ。

⑪大御殿跡
本丸南側の腰曲輪を進んだ先の、本丸東側には、大御殿跡がある。

⑫大御殿跡から天守曲輪を見る
大御殿跡の西側にある天守曲輪を見上げる。宇陀松山城は城割で石垣とかも崩されたが、天守曲輪には石垣が残っている。

⑬二の丸跡との間の横堀
大御殿跡の南東側には二の丸跡があり、その間には横堀がある。二の丸跡は木々が残ったままなので、全容が分からない。

⑭北東側御加番跡
大御殿跡の北側には御加番跡がある。


⑮大堀切
本丸北東側の御加番跡の西には大堀切がある。

⑯本丸南側虎口
本丸南側の腰曲輪まで戻り、そこから本丸跡に入る。南側の虎口周辺にも石垣が一部残っている。

⑰本丸跡


⑱天守曲輪
本丸の東側にある天守曲輪。ここも若干、石垣が残っている。

⑲北側曲輪
天守曲輪から北側の曲輪跡を見る。さきほどの北東側御加番跡から大堀切を挟んで西側にある曲輪。

⑳本丸西側虎口
本丸は南側以外にも西側にも虎口があり、ここから降りると大手口に出る。ということは恐らく、こちらが大手側の虎口か。

㉑遠景
バス停近くから宇陀松山城跡を見る。



[余湖図](参考)
(※余湖図は「余湖くんのお城のページ」から転載させて貰っています)


[宇陀松山城跡マップ]


より大きな地図で 宇陀松山城跡 を表示

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