2014/09/21

岩国城

遠征最終日は標高216mの横山山頂に築かれた岩国城。

関ヶ原の戦いで西軍ながら傍観して東軍勝利に貢献した吉川広家が米子から岩国に移って築城した。
しかし完成からわずか7年後、一国一城令により廃城。広家は周防国内には岩国城しかないと主張したが、毛利本家の意向により山上部分は取り壊された。
広家は関ヶ原で毛利本家を存続させるために徳川に恩を売ったつもりが、毛利本家から見ると広家の裏切りにより西軍が敗北し、そのため3ヶ国に減らされてしまった恨みが残ったためと言われる。



(1) 大手橋(錦帯橋)
日本三名橋として観光客で賑わう錦帯橋は、岩国城と城下町をつなぐ橋として錦川に架けられた。しかし錦川の洪水の度に流失。
3代領主吉川広嘉のときに洪水に耐えられる橋をと5連のアーチ橋の錦帯橋が造られた。


2014/09/13

亀居城跡

吉田郡山城跡の次は、広島県大竹市にある亀居城跡へ。
亀居城は、広島城の支城として福島正則が築城した平山城。

関ヶ原の戦いの後に広島城へ入城した福島正則は、毛利氏の抑えのため、安芸国西部の山陽道を押さえる要地に築城した。5年もの歳月をかけて巨大な堅城を築いたが、豊臣氏と徳川氏との間に緊張が高まると豊臣恩顧大名である福島正則も徳川氏に警戒され、そのため完成よりわずか3年で廃城になった。

現在は大竹市指定史跡に指定され、亀居公園として整備されている。



①亀居城跡遠景
JR玖波駅で下車し、山陽本線に沿って下り方向に歩くと、亀居城跡のある丘陵が見えてくる。



2014/08/31

郡山旧本城

吉田郡山城のある郡山の南側尾根筋にある旧本城跡。
建武3年(1336年)に毛利時親が築城し、毛利元就が郡山全山を城郭化して山頂に移るまで、毛利氏11代・約190年間本城としていた。本丸・二の丸・三の丸を直線的に階段状に並べた、単純な縄張りである。

旧本城への道は、尾崎丸跡手前にあり、そこからまたかなり降ろされる。せっかくかなり登ったのに、この分また登らないとと思うと気が重くなる。




①堀切
旧本城の背後(山頂側)には3本の堀切がある。写真は一番良好な状態で残っている(恐らく)真ん中の堀切。残り2本は埋まってしまってかなり浅くなっており、そのうち1本は堀切かどうかも良く分からない。



2014/08/23

吉田郡山城跡

遠征2日目は毛利氏の本城であった吉田郡山城跡へ。
吉田郡山城は、可愛川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する標高約400m(比高約200m)の郡山に築かれた山城で、城域は郡山全域に及ぶ。

南北朝時代に吉田荘の地頭職として下向した毛利時親は、郡山の南側の尾根上に城を築いて居城とした。
戦国時代に入り吉田郡山城の入城した毛利元就は、城を大規模に改修。本丸を山頂に移し、その周囲に大小270もの曲輪を階段状に連ねて、郡山全体を要塞化した。毛利元就が大内氏の被官であったころ、2から3万と言われる尼子軍に攻めこまれたが、吉田郡山城で守りぬき、援軍に来た大内氏とともに尼子軍を撃退した。(大規模改修したのはこの戦いの後という説もある)
元就・隆元・輝元時代にかけて改修を続けてきた吉田郡山城だが、山城としての限界を感じた輝元は平地の広島城を築いて居城を移した。関ヶ原後に安芸に入封した福島正則の時代に吉田郡山城は廃城となった。
現在、城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。

吉田郡山城へは広島バスセンターからのバスの方が本数が多いが、せっかく18切符があるので芸備線で吉田口駅まで行き、そこから備北交通バスに乗り大浜停留所で下車。ただし、このバスは日曜日は運休しているので注意。




(1) 吉田郡山城跡遠景
南側にある歩道橋から吉田郡山城跡を見る。左奥が吉田郡山城跡の主郭で、右手前の低い山が旧本城跡。



2014/08/17

宮尾城跡

広島城の次は宮島にある宮尾城跡。
実は初日の城攻め予定は広島城だけで、広島に来たついでに厳島神社に寄ってみたら、そのすぐ近くに城跡があった。

宮尾城は厳島北西にある要害山と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた連郭式平山城。要害山という名前の割には現在は低い丘に過ぎないが、当時は城北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面し、水軍の運用も可能な城であったと言う。
大内氏の被官に過ぎなかった毛利元就は、大内義隆が重臣・陶晴賢に討ちとられた際に独立。しかし、当然ながら新たに大内氏の実権を握った陶晴賢はこれを許さず大軍で攻めてくる。普通に戦えば勝てない元就は、厳島に宮尾城を築き陶方の大軍をおびき寄せることに成功し、嵐の日に奇襲して陶晴賢を討ち取った。この厳島合戦により、独立するだけでなく中国地方の覇権を握る礎を築いた。

宮尾城という名に聞き覚えはなくても、有名な厳島合戦で囮となった城なので、気付かず通り過ぎていたら後悔するところだった。


①宮尾城跡北東面
フェリーターミナルから厳島神社へ向かう道中の観光客向け店舗のすぐ背後にある宮尾城跡。要害山と呼ぶにはあまりに低い山ですぐ落城しそうだが、当時はこちらは海だった。



2014/08/09

広島城

この夏の18切符2つ目は広島方面に城攻め遠征へ。
初日一つ目は毛利輝元が築いた広島城で、名古屋城・岡山城と共に日本三大平城の一つに数えられている。また「鯉城(りじょう)」とも呼ばれている。

毛利輝元は中国の覇者・毛利元就の孫で、それまでの本城は吉田郡山城であった。しかし山城では交通が不便なために廃城とし、領国の中心であり水陸双方の交通の要所である太田川河口に新たに本城を築城した。時代は豊臣政権のときで、輝元が上洛したときに感銘を受けた聚楽第を参考にしたと言われ、関ヶ原の前年に完成した。
しかし輝元は関ヶ原で西軍の総大将に担がれたため、敗戦後は防長2ヶ国に減らされて萩へ移り、替わって東軍で活躍した福島正則が入城した。正則は広島城の外郭を整備し、内堀・中堀・外堀を持つ1km四方に及ぶ広大な城となった。その正則はささいなことを咎められ所領を没収され、次に紀伊・和歌山城の城主だった浅野長晟が広島城に入城し、以後、維新まで浅野氏の支配が続いた。
維新後は広島鎮台となり天守などの建物の取り壊しは免れ、さらに第二次世界大戦でも終戦間際まで戦災をも免れていたが、原爆の爆風で倒壊した。

現在は広島城址公園として整備され、天守や二の丸表御門なども復元されている。



①北東二重櫓跡
広島城はJR広島駅の西側1.5km程度の、市電もあるが徒歩圏内。南側が大手だが、広島駅から歩いていくと本丸搦手の東側に出る。
広島城本丸は南北にやや長い方形の曲輪で四隅を天守および櫓で守り、それらを多門櫓や土塀でつないでいた。




2014/08/02

鬼ノ城跡

また18切符の季節になったので、それを利用して城攻め再開。
この夏の18切符一発目は、吉備高原南縁の標高約400mの鬼城山に築かれた鬼ノ城跡。
駅から遠くバスも無い僻地なのでなかなか行けなかったが、今回はレンタサイクルを利用して移動。ただ最寄り駅の服部駅には何も無いので、二つ先の総社駅のレンタサイクル店を利用した。

鬼ノ城は鬼城山の8~9合目あたりの急斜面にさらに高さ約6mの城壁が築かれた神籠石系山城。
7世紀の白村江の惨敗により本土防衛のために築かれたという説が有力であるが、日本書紀等の文献には記載がなく謎に包まれている。



1. 鬼ノ城跡遠景
レンタサイクルでの道中から鬼ノ城跡を見る。この辺りまではほぼ平地なのでスイスイ来れたが、もう少し先からほぼ上り坂オンリーとなり、自転車ではかなりきつかった。




2014/06/28

鹿児島城跡

2年前の九州出張ついでの城攻めのラストは鹿児島城跡。

鹿児島城は標高約107mの中世の上山城跡(城山)の麓に築かれた平城。屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから鶴丸城とも呼ばれていた。
関が原の戦いでは敗北した西軍に属していながら本領を安堵された島津家久が、戦後に築いた。公称77万石の大藩の居城にも関わらず、天守はもちろん二重櫓も無く、本丸と二の丸が並んだ単純な縄張りだった。



①御楼門跡
大手門にあたる御楼門跡。櫓門となっていて、この櫓門が天守も多重櫓も無い鹿児島城の象徴であった。


2014/06/08

人吉城跡

九州出張にかこつけて熊本城に行ったついでに、次は人吉城跡に。

人吉城は、球磨川の南側に位置する梯郭式平山城で、鎌倉時代初期に肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼が築いた。戦国時代末期・19代当主の相良義陽から江戸時代初期・22代頼寛にかけて大改修を行い、近代城郭となった。以後も明治維新に至るまで相良氏の居城であり、鎌倉時代から明治維新まで同じ城を居城としたのは恐らく相良氏のみであろう。
維新後の廃城令で廃城となった後、西南戦争のときに西郷隆盛軍の拠点となったため建造物は全焼した。

現在は国の史跡に指定され、人吉城公園として整備されており、平成になってから角櫓・大手門脇多聞櫓・続塀が復元された。
、


①駒川と角櫓(復元)
球磨川と駒川との合流地点にあり、天然の堀となっている。



2014/06/01

熊本城

18切符での在庫が無くなったので、2年前に九州出張時に前泊して行った熊本城。
熊本城は茶臼山に築かれた梯郭式平山城で、名古屋城・姫路城(または大坂城)とともに日本三名城の一つに挙げられている。

熊本城と言えば加藤清正が築いたことで有名だが、それ以前にも茶臼山一帯には中世城が存在した。
文明年間(1469-1487)に菊池一族の出田秀信が茶臼山東端に千葉城を築いたのが始まり。その後、鹿子木寂心が茶臼山西南麓に隈本城を築いた。
戦国時代になると城主が次々と入れ替わるが、秀吉時代に肥後北半国の領主となった加藤清正が入城し、茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。その最中、関ヶ原の功で肥後一国の領主となったため、計画変更されてさらに大規模な城となった。1607年の完成を機に、隈本城から熊本城に改名された。加藤氏は清正の子・忠広のときに改易。その後に細川忠利が領主となり、明治維新まで続いた。
西南戦争で4,000人が籠城した熊本城は、西郷隆盛率いる14,000人の反乱軍により攻められたが、1人として城内への侵入を許さず、熊本城の難攻不落ぶりが証明された。しかしこのときに一部の建物を残して主要な建物を焼失してしまった。

昭和になってから築城350年を期に大小天守と平櫓、塀などが復元、平成になってからは築城400年を期に本丸御殿、いくつかの櫓、塀などが復元、現在も復元工事中である。





(1) 長塀(重文)
城の南側には、東の平御櫓から西の馬具櫓まで約242mの塀が続いており、現存する城郭の塀の中では最長を誇る。その外側にあるのは天然の堀である坪井川。