2014/08/17

宮尾城跡

広島城の次は宮島にある宮尾城跡。
実は初日の城攻め予定は広島城だけで、広島に来たついでに厳島神社に寄ってみたら、そのすぐ近くに城跡があった。

宮尾城は厳島北西にある要害山と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた連郭式平山城。要害山という名前の割には現在は低い丘に過ぎないが、当時は城北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面し、水軍の運用も可能な城であったと言う。
大内氏の被官に過ぎなかった毛利元就は、大内義隆が重臣・陶晴賢に討ちとられた際に独立。しかし、当然ながら新たに大内氏の実権を握った陶晴賢はこれを許さず大軍で攻めてくる。普通に戦えば勝てない元就は、厳島に宮尾城を築き陶方の大軍をおびき寄せることに成功し、嵐の日に奇襲して陶晴賢を討ち取った。この厳島合戦により、独立するだけでなく中国地方の覇権を握る礎を築いた。

宮尾城という名に聞き覚えはなくても、有名な厳島合戦で囮となった城なので、気付かず通り過ぎていたら後悔するところだった。


①宮尾城跡北東面
フェリーターミナルから厳島神社へ向かう道中の観光客向け店舗のすぐ背後にある宮尾城跡。要害山と呼ぶにはあまりに低い山ですぐ落城しそうだが、当時はこちらは海だった。



2014/08/09

広島城

この夏の18切符2つ目は広島方面に城攻め遠征へ。
初日一つ目は毛利輝元が築いた広島城で、名古屋城・岡山城と共に日本三大平城の一つに数えられている。また「鯉城(りじょう)」とも呼ばれている。

毛利輝元は中国の覇者・毛利元就の孫で、それまでの本城は吉田郡山城であった。しかし山城では交通が不便なために廃城とし、領国の中心であり水陸双方の交通の要所である太田川河口に新たに本城を築城した。時代は豊臣政権のときで、輝元が上洛したときに感銘を受けた聚楽第を参考にしたと言われ、関ヶ原の前年に完成した。
しかし輝元は関ヶ原で西軍の総大将に担がれたため、敗戦後は防長2ヶ国に減らされて萩へ移り、替わって東軍で活躍した福島正則が入城した。正則は広島城の外郭を整備し、内堀・中堀・外堀を持つ1km四方に及ぶ広大な城となった。その正則はささいなことを咎められ所領を没収され、次に紀伊・和歌山城の城主だった浅野長晟が広島城に入城し、以後、維新まで浅野氏の支配が続いた。
維新後は広島鎮台となり天守などの建物の取り壊しは免れ、さらに第二次世界大戦でも終戦間際まで戦災をも免れていたが、原爆の爆風で倒壊した。

現在は広島城址公園として整備され、天守や二の丸表御門なども復元されている。



①北東二重櫓跡
広島城はJR広島駅の西側1.5km程度の、市電もあるが徒歩圏内。南側が大手だが、広島駅から歩いていくと本丸搦手の東側に出る。
広島城本丸は南北にやや長い方形の曲輪で四隅を天守および櫓で守り、それらを多門櫓や土塀でつないでいた。




2014/08/02

鬼ノ城跡

また18切符の季節になったので、それを利用して城攻め再開。
この夏の18切符一発目は、吉備高原南縁の標高約400mの鬼城山に築かれた鬼ノ城跡。
駅から遠くバスも無い僻地なのでなかなか行けなかったが、今回はレンタサイクルを利用して移動。ただ最寄り駅の服部駅には何も無いので、二つ先の総社駅のレンタサイクル店を利用した。

鬼ノ城は鬼城山の8~9合目あたりの急斜面にさらに高さ約6mの城壁が築かれた神籠石系山城。
7世紀の白村江の惨敗により本土防衛のために築かれたという説が有力であるが、日本書紀等の文献には記載がなく謎に包まれている。



1. 鬼ノ城跡遠景
レンタサイクルでの道中から鬼ノ城跡を見る。この辺りまではほぼ平地なのでスイスイ来れたが、もう少し先からほぼ上り坂オンリーとなり、自転車ではかなりきつかった。




2014/06/28

鹿児島城跡

2年前の九州出張ついでの城攻めのラストは鹿児島城跡。

鹿児島城は標高約107mの中世の上山城跡(城山)の麓に築かれた平城。屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから鶴丸城とも呼ばれていた。
関が原の戦いでは敗北した西軍に属していながら本領を安堵された島津家久が、戦後に築いた。公称77万石の大藩の居城にも関わらず、天守はもちろん二重櫓も無く、本丸と二の丸が並んだ単純な縄張りだった。



①御楼門跡
大手門にあたる御楼門跡。櫓門となっていて、この櫓門が天守も多重櫓も無い鹿児島城の象徴であった。


2014/06/08

人吉城跡

九州出張にかこつけて熊本城に行ったついでに、次は人吉城跡に。

人吉城は、球磨川の南側に位置する梯郭式平山城で、鎌倉時代初期に肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼が築いた。戦国時代末期・19代当主の相良義陽から江戸時代初期・22代頼寛にかけて大改修を行い、近代城郭となった。以後も明治維新に至るまで相良氏の居城であり、鎌倉時代から明治維新まで同じ城を居城としたのは恐らく相良氏のみであろう。
維新後の廃城令で廃城となった後、西南戦争のときに西郷隆盛軍の拠点となったため建造物は全焼した。

現在は国の史跡に指定され、人吉城公園として整備されており、平成になってから角櫓・大手門脇多聞櫓・続塀が復元された。
、


①駒川と角櫓(復元)
球磨川と駒川との合流地点にあり、天然の堀となっている。



2014/06/01

熊本城

18切符での在庫が無くなったので、2年前に九州出張時に前泊して行った熊本城。
熊本城は茶臼山に築かれた梯郭式平山城で、名古屋城・姫路城(または大坂城)とともに日本三名城の一つに挙げられている。

熊本城と言えば加藤清正が築いたことで有名だが、それ以前にも茶臼山一帯には中世城が存在した。
文明年間(1469-1487)に菊池一族の出田秀信が茶臼山東端に千葉城を築いたのが始まり。その後、鹿子木寂心が茶臼山西南麓に隈本城を築いた。
戦国時代になると城主が次々と入れ替わるが、秀吉時代に肥後北半国の領主となった加藤清正が入城し、茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。その最中、関ヶ原の功で肥後一国の領主となったため、計画変更されてさらに大規模な城となった。1607年の完成を機に、隈本城から熊本城に改名された。加藤氏は清正の子・忠広のときに改易。その後に細川忠利が領主となり、明治維新まで続いた。
西南戦争で4,000人が籠城した熊本城は、西郷隆盛率いる14,000人の反乱軍により攻められたが、1人として城内への侵入を許さず、熊本城の難攻不落ぶりが証明された。しかしこのときに一部の建物を残して主要な建物を焼失してしまった。

昭和になってから築城350年を期に大小天守と平櫓、塀などが復元、平成になってからは築城400年を期に本丸御殿、いくつかの櫓、塀などが復元、現在も復元工事中である。





(1) 長塀(重文)
城の南側には、東の平御櫓から西の馬具櫓まで約242mの塀が続いており、現存する城郭の塀の中では最長を誇る。その外側にあるのは天然の堀である坪井川。



2014/05/25

白地城跡

春の18切符のラストは白地城跡へ。
白地城は阿波国三好郡白地(徳島県三好市池田町白地)にあった山城。

白地城は四国の中央部の山間地に立地し、阿波・讃岐・伊予・土佐いずれの国にも通じる道の交差点にあたる場所にあり、そのため四国を制覇する長宗我部元親の拠点となった。
しかし現在は城跡に温泉宿が建設され、遺構はほとんど破壊されて残っていない。その温泉宿が建設された昭和後期までは曲輪や堀など遺構が多く残っていたらしい。

戦前にあるいは戦争で失われたのならまだあきらめもつくが、昭和後期(恐らく自分が生まれた後)まで遺構が残っていたのを破壊されたと聞くと、すごく腹が立つ。長宗我部元親の四国制覇の拠点で、歴史的にも重要な城なのに。


①白地城跡遠景
白地城跡の最寄り駅は三縄駅だが、一個手前の阿波池田止まりの列車に乗って、これ以遠の列車の本数がかなり少ないので、そこから歩いて行った。その途中から見た白地城跡の遠景。右側の山の中腹に白い建物が見えるが、これが白地城跡に建てられた温泉宿。




2014/05/17

七尾城跡

春の18切符での石川県の城攻めの二日目。小丸山城跡の次は、この城攻めの本命・七尾城跡へ。
七尾城は、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上の通称「城山」にあり、その尾根から枝分かれする尾根にも無数の砦を配置した大規模な連郭式山城である。七つの尾根に築かれた城ということから七尾城と呼ばれた。

七尾城は能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428-1429年)頃にこの地に築いたと思われる。当初は砦程度の規模であったが、戦乱の時代になり増築・拡張され、能登国に侵攻した上杉謙信にによる攻撃にも、一年にわたって持ちこたえるほど強固な城となった。このときに外からの攻撃には耐えぬいたが、内部の対立による内応のため開城した。七尾城はその後、織田の支配下に入り前田利家が城主となるが、小丸山城へ本城を移して廃城となった。

石垣を始め、当時の遺構がかなり残っており、国の史跡に指定されている。また日本五大山城のひとつに数えられている。



(1) 七尾城跡遠景
七尾城へは七尾駅前から市内循環バスにて。「城史資料館前」バス停付近から、七尾城跡を見る。


2014/05/11

小丸山城跡

春の18切符での石川県の城攻め。
二日目は能登まで足を伸ばして、前田利家が築いた小丸山城跡。

織田信長より能登一国を与えられた前田利家は七尾城に入城するが、山城で利便性に難があるため、七尾港に近い小丸山に平山城を築いた。
その後に秀吉が柴田勝家を滅ぼすと、加賀半国を加増された利家は金沢城(当時は尾山城)に本拠を移した。小丸山城には城代が置かれるが、江戸時代に入ると一国一城令のため廃城となった。



①小牧山城跡遠景
JR七尾駅から七尾線に沿って西に向かうと、すぐに小牧山城跡が見えてくる。


2014/05/04

鳥越城跡

この春の18切符3つ目と4つ目は、一泊二日で石川県の城攻めへ。まずは加賀の鳥越城跡。
鳥越城は、石川県白山市にある標高312mの山に築かれた連郭式山城。

織田信長による加賀一向一揆討伐の最中、白山麓山内衆の一向一揆の拠点として築城された。1580年に織田方の柴田勝家軍によって落城し、城主の鈴木出羽守を始めとする鈴木一族は滅ぼされた。しかし、その後も白山麓一向一揆は続き、攻防戦が展開されたが、1582年勝家の甥である佐久間盛政によって鎮圧された。

現在は国の史跡に指定されており、櫓門・門及び一部の石垣が復元されている。




(1) 鳥越城遠景
鳥越城跡へは北陸鉄道の終点・鶴来駅からバスに乗って上野バス停で下車。そこから南に向かって歩いて行くと、正面に城跡のある山が見えてくる。