2014/06/28

鹿児島城跡

2年前の九州出張ついでの城攻めのラストは鹿児島城跡。

鹿児島城は標高約107mの中世の上山城跡(城山)の麓に築かれた平城。屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから鶴丸城とも呼ばれていた。
関が原の戦いでは敗北した西軍に属していながら本領を安堵された島津家久が、戦後に築いた。公称77万石の大藩の居城にも関わらず、天守はもちろん二重櫓も無く、本丸と二の丸が並んだ単純な縄張りだった。



①御楼門跡
大手門にあたる御楼門跡。櫓門となっていて、この櫓門が天守も多重櫓も無い鹿児島城の象徴であった。


2014/06/08

人吉城跡

九州出張にかこつけて熊本城に行ったついでに、次は人吉城跡に。

人吉城は、球磨川の南側に位置する梯郭式平山城で、鎌倉時代初期に肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼が築いた。戦国時代末期・19代当主の相良義陽から江戸時代初期・22代頼寛にかけて大改修を行い、近代城郭となった。以後も明治維新に至るまで相良氏の居城であり、鎌倉時代から明治維新まで同じ城を居城としたのは恐らく相良氏のみであろう。
維新後の廃城令で廃城となった後、西南戦争のときに西郷隆盛軍の拠点となったため建造物は全焼した。

現在は国の史跡に指定され、人吉城公園として整備されており、平成になってから角櫓・大手門脇多聞櫓・続塀が復元された。



①駒川と角櫓(復元)
球磨川と駒川との合流地点にあり、天然の堀となっている。



2014/06/01

熊本城

18切符での在庫が無くなったので、2年前に九州出張時に前泊して行った熊本城。
熊本城は茶臼山に築かれた梯郭式平山城で、名古屋城・姫路城(または大坂城)とともに日本三名城の一つに挙げられている。

熊本城と言えば加藤清正が築いたことで有名だが、それ以前にも茶臼山一帯には中世城が存在した。
文明年間(1469-1487)に菊池一族の出田秀信が茶臼山東端に千葉城を築いたのが始まり。その後、鹿子木寂心が茶臼山西南麓に隈本城を築いた。
戦国時代になると城主が次々と入れ替わるが、秀吉時代に肥後北半国の領主となった加藤清正が入城し、茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。その最中、関ヶ原の功で肥後一国の領主となったため、計画変更されてさらに大規模な城となった。1607年の完成を機に、隈本城から熊本城に改名された。加藤氏は清正の子・忠広のときに改易。その後に細川忠利が領主となり、明治維新まで続いた。
西南戦争で4,000人が籠城した熊本城は、西郷隆盛率いる14,000人の反乱軍により攻められたが、1人として城内への侵入を許さず、熊本城の難攻不落ぶりが証明された。しかしこのときに一部の建物を残して主要な建物を焼失してしまった。

昭和になってから築城350年を期に大小天守と平櫓、塀などが復元、平成になってからは築城400年を期に本丸御殿、いくつかの櫓、塀などが復元、現在も復元工事中である。





(1) 長塀(重文)
城の南側には、東の平御櫓から西の馬具櫓まで約242mの塀が続いており、現存する城郭の塀の中では最長を誇る。その外側にあるのは天然の堀である坪井川。